三等或は四等の有期徒刑、或は壹千圓以下壹百圓以上の罰金に處すとあるが、其他帝室に關する犯罪でも、多く徒刑或ひは罰金若干と規定してある。即ち罪重く法輕き譯で、かくては君、臣の綱たる義と刺謬すること甚しい譯である。第二、舊法律では、父子の倫を重んじてある。故に祖父母父母を毆つたものは死に處することになつて居たが、新刑法では凡そ尊親屬を傷害し、因つて死或ひは篤疾に致すものと雖、必ずしも死刑に處せられず、是れまた父、子の綱たるの義に戻れり。第三、舊法律は夫婦の倫を重んじてある、故に妻夫を毆つときは杖に處し、夫妻を毆つときは折傷するに非ざれば罪を論ぜず。又妻夫を毆殺するときは斬に處すれども、夫妻に對し同一の罪を犯すときは絞に處す。而して條例中、婦人の犯罪は多く本人を罰せずして夫をして之に坐せしむ。是妻は夫に從ふものなれば、其責任を夫に負はしむるなり。然るに新刑法には妻妾夫を毆つの專條なく、之を普通人の例に等しくするは、夫、妻の綱たるの義に違へり。第四舊律では男女の別を重んじてある。然るに新刑法にては親屬の相姦、平人と別なく、又十二歳以下の男女に對し猥褻の行爲をなすものと、強姦に對する制裁のみありて其他の姦淫については何等の刑罰がない。又其説明に姦淫は社會國家の害を引起すと雖、社會國家の故を以て科するに重刑を以てするは、刑法の理論に於て未だ協はず。例せば法律を以て泥飮及び惰眠を制限すべからざるが如し云々とある。刑法已に和姦を寛宥して罰せずんば禮教又防範する能はざるに至らん。又多くの犯罪は徒刑又は罰金に處することになつて居れども、かくては貲に饒かなるものは法を輕んずるに至るべく、貨財を重んじて禮儀を輕んずるの風を生ぜん。是決して我彝倫攸敍の中國に行ふべき法にあらずと論じて居る。かゝる反對論が矢釜敷かつたから、折角出來た新刑法も再び修正を加ふることゝなり、遂に宣統元年正月を以て「惟是刑法之源。本[#二]乎禮教[#一]。中外各國。禮教不[#レ]同。故刑法亦因[#レ]之而異。中國素重[#二]綱常[#一]。故於[#下]干[#二]犯名義[#一]之條[#上]。立法特爲[#二]嚴重[#一]。良以[#下]三綱五常。闡[#レ]自[#二]唐虞[#一]。聖帝明王。兢兢保守。實爲[#中]數千年相傳之國粹。立國之大本[#上]。(中略)但祗可[#下]採[#二]彼所[#一レ]長。益[#中]我所[#上レ]短。凡我舊律義關[#二]倫常[#一]諸條。不[#レ]可[#三]率行[#二]變革[#一]。庶以維[#二]天理民彝於不[#一レ]敝。該大臣等。務本[#二]此意[#一]。以爲[#二]修改宗旨[#一]。是爲[#二]至要[#一]。」云々の上諭を下された。これを見ても支那が東西洋の文明を採用し、從來の制度に變革を試みんとすると、直ぐに其反動が起り、他國の文明の侵入に對し國粹を主張する傾向を生ずることが分る。是れは我明治初年から二十一二年頃迄の有樣と大に趣を殊にする所で、我國で國粹論の起つたのは、朝野共に歐米の文明に心醉し、舊物は善いも惡いも一度盡く破壞した後の事である。今でこそ誰れも國家とか國體とか武士道とか口癖の樣に唱へて居るけれども、昔しは隨分これと反對の言論をやつた。即ち楠公の忠死を權助の首縊りに比した教育家もある、我國語を英語と定めんければならぬと唱へた經世家もあつた。或は慷慨義烈などいふことは消化器病者の心理状態であるといつた學者もあり、國粹保存どころか人種の改良を主張した論者もあつた。それから猶明治の初年に出た教育に關する御達を見ると「從來學問は士人以上の事として、農工商及び婦女子に至りては之を度外に置き、學問の何物たるを辨ぜず、又士人以上の稀れに學ぶものも、動もすれば國家の爲めにすと唱へ[#「動もすれば國家の爲めにすと唱へ」に丸傍点]、身を立つるの基たるを知らずして[#「身を立つるの基たるを知らずして」に丸傍点]、或は詞章記誦の末に趨り、空理虚談の途に陷り、其論高尚に似たりと雖、之を身に行ひ事を施すこと能はざるもの少からず、是れ即ち沿襲の餘弊にして、文明普ねからず才藝長ぜずして貧乏破産喪家の徒多き所以也[#「貧乏破産喪家の徒多き所以也」に丸傍点]」とある。學問を國家の爲めにすと唱ふるの非を論じ、學問の目的を生活の爲めとし學問の方法を誤まつて、破産喪家に至るなきを戒しむる所など、今日から見ると中々面白い。高山彦九郎、吉田松陰、櫻田四十七士の事蹟などは、今日でこそ大切な教育の材料となつて居るけれども、御達の主意によると、餘り學ぶべきものでない事になる。この明治初年以來の舊物舊思想破壞は餘りに突飛で、又危險であつたけれども、是れも致方なき事で、かゝる猛烈な改革をやつたればこそ、僅四十餘年で、今日の國運隆盛を來した譯である。支那の如くまだ眞正に西洋の文物を採用せぬ先から、國粹などを唱ふるのは、早きに失しはしまいかと思はる。併しまた一方から考ふると、數千年以來の固有な文明があつて、根底が深く、一朝に破壞する事の出來ないのは、支那の誇りといつてよいかも知れぬ。物は見方である、支那の文明は借物ではない。
 我國の國粹は必ず帝室と關係を有して居る。學問技藝、其他あらゆる文化は一として間接直接に帝室の栽培護持をうけぬものはあるまい。支那の場合は之と違つて、支那の國粹は支那人が古昔から持つて居たもので現朝は異人種で支那人を征服しながら却て支那の文明に征服されて其恩惠に浴した譯である。自國の國粹を貴んだといつて、それが直ちに尊王心と結びつく譯にはいかぬ、右國粹の貴ぶべきを知つたら却つてこれを生じた支那民族の偉大なることを自覺し、愈※[#二の字点、1−2−22]彼等の所謂民族主義を鼓吹するに至るかも知れぬ。前に述べた通り政府では國粹を主張し之によつて朝廷に對する忠義心を養成せんとして居るが、これは出來るかどうか分らぬのである。
[#地から1字上げ](明治四十五年一月、藝文第參年第壹號)
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此稿本年八月京都帝國大學開催夏期講習會に於ける特別講演の要を自記録したものに係る。當時清國禍機未だ發せず、是れ結末唯豫想の語をなす所以なり。十一月二十七日、寄稿者。
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底本:「支那學文藪」みすず書房
   1973(昭和48)年4月2日発行
初出:「藝文 第貳年第拾號」
   1911(明治44)年7月
   「藝文 第參年第壹號」
   1912(明治45)年1月
入力:はまなかひとし
校正:小林繁雄
2006年9月15日作成
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