我舊律義關[#二]倫常[#一]諸條。不[#レ]可[#三]率行[#二]變革[#一]。庶以維[#二]天理民彝於不[#一レ]敝。該大臣等。務本[#二]此意[#一]。以爲[#二]修改宗旨[#一]。是爲[#二]至要[#一]。」云々の上諭を下された。これを見ても支那が東西洋の文明を採用し、從來の制度に變革を試みんとすると、直ぐに其反動が起り、他國の文明の侵入に對し國粹を主張する傾向を生ずることが分る。是れは我明治初年から二十一二年頃迄の有樣と大に趣を殊にする所で、我國で國粹論の起つたのは、朝野共に歐米の文明に心醉し、舊物は善いも惡いも一度盡く破壞した後の事である。今でこそ誰れも國家とか國體とか武士道とか口癖の樣に唱へて居るけれども、昔しは隨分これと反對の言論をやつた。即ち楠公の忠死を權助の首縊りに比した教育家もある、我國語を英語と定めんければならぬと唱へた經世家もあつた。或は慷慨義烈などいふことは消化器病者の心理状態であるといつた學者もあり、國粹保存どころか人種の改良を主張した論者もあつた。それから猶明治の初年に出た教育に關する御達を見ると「從來學問は士人以上の事として、農工商及び婦女子に至りては
前へ
次へ
全26ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
狩野 直喜 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング