方から可耻可痛と言ひたい位であるが、先づ彼等の見る所はさうである。其外提學使等が我國を視察し歸つて出した奏摺を檢べて見ると、多く日本の孔教に就いて言つて居るが大同小異なれば此に略する。
 兎も角前に述べた樣な次第で、學部の上奏に本づき上諭が降り、教育の方針天下に宣布された。それから今一つ大切な事件は孔子を大祀に升ぼしたことである。一體支那で國家の祭祀は大祀、中祀、羣祀の三つに分れ、大祀は天地、太廟、社禝に限られ、孔子は中祀に列して居たのを、西太后の懿旨によつて大祀に升ぼした。從來孔子は萬世の師表として歴代より崇敬されて居たけれど、之を天地と同格に祭つた例を聞かぬ。これも孔教を尊び國粹を保存すると同時に、所謂邪説※[#「言+皮」、185−5]詞を排斥するといふ意思に出たものである。又同年十二月の上諭にも學問は中學([#ここから割り注]支那の學問のこと[#ここで割り注終わり])を以て主とし西學を以て輔とすといふことを明言してある。國粹主義が教育の方面に於て如何に表はれてゐるかを見ることは先づ上述の通りである。[#地から1字上げ](明治四十四年七月、藝文第貳年第拾號)

          
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