[#ここで割り注終わり])が地下でこれを聞かれたら、斯ることが有らうと迄は思はなかつたといつて喜ぶだらうと得意さうに書いてある。それから優級及び初級師範及中學堂の課目を檢べて見ると、人倫道徳([#ここから割り注]初級學堂では修身といふ[#ここで割り注終わり])といふものがあつて、支那の經典を本として實踐道徳を教ゆる外に、羣經源流([#ここから割り注]初級學堂では講讀經講經といふ[#ここで割り注終わり])といふものがあり、又其上に中國文學がある、而して其時間は下級の學堂になればなる程多い。此等學制の點から見ても當局者の考が能く分るが、之を一層明白にしたものは光緒三十二年([#ここから割り注]明治三十九年[#ここで割り注終わり])三月の教育宗旨に關する上諭である。
それは學部の奏議に本づいて發せられた者であるが、原奏の趣意は學部が新に立てられたに就いては、先づ教育の宗旨を天下に宣示して、風氣を一にし人心を定むべしとて、其要目を擧げたのであるが、一は中國の固有する所にして益これを闡明すべきもの即ち忠君[#「忠君」に白丸傍点]と尊孔[#「尊孔」に白丸傍点]の二箇條である。他は中國の缺點で、今
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