。一體之洞の考へでは、哲學といふものは其説く所高遠にして實用に切ならざるもので、其上言はゞ中國諸子異端の學の如きもので、遣り樣によつては危險思想を養成するの虞があるから、置かぬ方がよいといふのである、而して文科の中にも矢張中國史學、中國文學などが重な學科となつて居る。我國の大學は蕃書取調所から漸次發達したもので、西洋の學問が主となり國語國文國史漢學などは寧ろ後に盛んとなつた。支那の大學は創立の時代から自國の學問を主として居る、是れは大なる差異である、茲に面白き談がある。支那新聞の記する所に據れば、經科大學が開始されたとき、東西洋人の入學を志望するものが段々あつて、それ/″\の公使館から學部に照會したら、學部では協議の上、經學は中國固有のものなれば、外國人でも希望の向は入學を許るすべし。但其他の大學は、草創の際、諸事不整頓なれば暫く拒絶すといふ囘答をしたとある。該報の記者は東漢明帝のとき經學が昌明で、匈奴の子弟まで遠く來つて入學したと云ふ談は史乘に見えて居るが、外國人の經科大學入學は明帝以後絶えてなかつた盛事である。若し張文襄([#ここから割り注]文襄は之洞の謚で此時は已に亡くなつて居た
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