俗として女子は中饋を掌つて、外事に干與せざるを美徳としてあつたが、現今の女學生などは、中※[#二の字点、1−2−22]そんな奴隷根性を持ぬと主張する。支那の新聞を見ると、近來は世界婦人會などを組織する女士があつて廣く世界の婦人と智識を交換し互ひに聯絡をとつて女權の擴張を圖るといふ樣な趣旨書を發表して居る。彼等は勿論從來の良妻賢母主義などには滿足せぬ。議會も開けぬ前から婦人參政權を得るの運動でも仕兼ねまじき權幕である。然るに政府の當局者で勿論均しく進歩的の傾向があつても支那の學問が根底となつて居る連中はこの風潮に對して危懼の念を抱き一方には種々の改革をして新政を布くと同時に國粹保存と云ふことを、矢釜敷言出した。即ち支那に於いて奇怪な現象といふべきは、此等の所謂進歩派、開通派の連中が同時に大なる國粹保存者であることで、之を我維新の初に、當路の諸公及び民間の識者が總べての舊物を破壞することを務めたのと比較したら大いな差異を發見するであらう。
予輩は先づ教育の方面に就き、國粹主義が如何なる具合にあらはれたかを見よう。光緒二十九年五月即ち我明治三十六年、北清事件のあつてから僅四年目に、管學大臣張百熙、榮慶及び湖廣總督張之洞の三人が勅命を奉じて大學堂以下各省諸學堂の章程を釐定し十一月に裁可を得た。其後多少の變更はあつたかも知らぬが、現今支那の諸學堂は之に本づいて立てられて居ると見て差支ない。そして能くこの章程を見ると中々面白い事がある。即ち初めに全國學堂總要といふものがあつて學堂教育の心得を示してあるが、第一に學校では最徳育に重を置き、教員たるものは授業に當り隨時指導し、曉すに尊親の義を以てし、一切の邪説※[#「言+皮」、181−17]詞は極力排斥しなくてはならぬとある。又中小學は學問の根底を作る處だから、學科のうちにても殊に讀經に重を置き以て聖教を存すべしといひ、其説明に「外國學堂有[#二]宗教一門[#一]。中國之經書。即是中國之宗教。若學堂不[#レ]讀[#二]經書[#一]。則是堯舜禹湯文武周公孔子之道。所謂三綱五常。盡行[#二]廢絶[#一]。中國必不[#レ]能[#レ]立[#レ]國矣。學失[#二]其本[#一]則無[#レ]學。政失[#二]其本[#一]則無[#レ]政。其本既失。則愛[#レ]國愛[#レ]類之心。亦隨[#レ]之改易矣。安有[#二]富強之望[#一]乎。」云々とある。そ
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