も極めて寡なく、新學を云々する人でも、其西洋の文明を喜ぶの程度は、到底我明治の西洋文明鼓吹者に及ぶべきものではなかつた。
然るに日清戰爭となつて、中華を以て自誇つて居た支那が負けたから、漸く舊來の陋習を守つて居ては、列國競爭場裡に立つことは出來ぬ。果して富強の實を擧ぐるには、日本の如き態度を以て西洋文明を採用せねばならぬといふ考が盛んになつて變法自強[#「變法自強」に白丸傍点]の語が朝野到る處に唱道され、程なく獨逸の膠州灣占領となつてから彼等が國運に對する危懼の年は愈※[#二の字点、1−2−22]甚しかつた。それから康有爲梁啓超等の新學派が是機に乘じて朝廷に用ゐられ官制の上から變法が行はれたけれども餘り過激であつたのと、康梁の學術、及び其資望が足らない種※[#二の字点、1−2−22]の原因から反動が起り、一旦やりかけた改革も未だ幾ならずして中止され、中止されたのみならず、守舊派其勢力を恢復して排外熱盛んとなり北清事件に至つて極まつた。まだ此時代まで國粹などいふ語はなかつたけれども、要するに急激な西洋文明の侵入に對して、國粹主義が極端に發動したものと見ても差支ない。然れどもこれは本《ホン》の一時で、聯軍進城兩宮蒙塵等の事があつた爲め愈※[#二の字点、1−2−22]古來の陋習を破り、西洋の文明を採つて富強を圖るの必要を感じ、從來康梁の議論には不贊成であつた人も、漸く穩健着實な改革意見を發表し、君臣一意、諸種の改革を實行した。が、時勢は彼等を驅つて益※[#二の字点、1−2−22]其範圍を大ならしめた。單に教育の方面から云つても科擧を廢し學堂を興し又留學生を東西兩洋に派遣するなど、誠に盛んなものであつた。
かく清國朝野が西洋の文物を尊重し、之れを採用するに汲々たる時に當り、古來自國の學術禮教に對して如何なる態度を取つて居たか。吾人は明に二の潮流を認むることが出來る。即ち一は極端な新學心醉者であつて、彼等は支那固有の學術は價値ないものだから、宜しく之れを全廢すべしといひ、聖經賢傳中にある中國の禮教に對して懷疑の立場にあつた。吾人は嘗つて支那新聞に或日本の倫理學教科書の飜譯が出た時の廣告文に今や支那に於て舊道徳已に衰へて新道徳將に興らんとしつゝあり、西洋の倫理學説に耳を傾けんと欲する人士は必ず一本を購ひ坐右に備へざるべからずといふ意味の文句があつたのを見た。また支那從來の風
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