ものがある。國寶の二字は古く經典に見え、『親[#レ]仁善[#レ]鄰國之寶也。』『口能言[#レ]之身能行[#レ]之國寶也。』など其例少なくない。又其中には今日我國に用ゐる語の意味と同じきものもあるが、矢張り是の語も我國より輸入したものに相違ない。
さて支那人が國粹保存など唱ふるに至つたのは、近時西洋の文明が盛んに輸入され又歡迎さるゝやうになつてからの事である。勿論支那に西洋の學問技藝の傳つた起源をいへば決して新しい事でない。かの明萬暦より清雍正時代にかけて、利瑪竇(Matteo Ricci)龍華民(Nicolas Longobardi)湯若望(Adam Schaal)南懷仁(Ferdinand Verbiest)のゼシュイット僧等が支那に來て、宗門のことは勿論、天文暦算輿地機器の方面に關し、多くの著述をなし、西洋の文明を輸入した事は顯著な事實で、彼等の著述せし書目を見た丈でも、其熱心なのに驚くのである。又支那人の方でも、彼等が天文暦算に秀でた事を認め、清朝の官制にも欽天監監正即ち天文臺長ともいふべきものは、滿一人西洋一人を以て之れに充つることに規定され、殊に康熙帝の如きは西洋の學術に注意し拉丁文字迄に通じて居たといふ話である。併し當時の支那人が、西洋の文明に對する考へは、唯彼等が天文暦算等の技藝に秀でゝ居るから、其長處だけを利用するといふ位のことで、勿論西洋の文明が自國の文明より同等若しくは其以上のものであるなどいふ考は持たなかつた。又實際公平に論じても、當時西洋文明の程度が支那に優つて居たとも思へない。然るに其後西洋の文明は愈※[#二の字点、1−2−22]進歩し來ても、又鴉片戰爭とか英佛同盟軍の北京侵入などあつて、種々の點に於て西洋文明の價値を知る機會に接し少なくとも其畏るべきことを知る機會に接したれど、支那人が自國の文明に對する自負心は、毫しも動搖することなく、以て近年に至つた。尤も近年の事ではあるが、曾國藩李鴻章一二達識の士は略※[#二の字点、1−2−22]西洋の事情を解し其文明を輸入するの必要を唱へ、同治十年兩人連銜して聰頴なる子弟を選び、西洋に留學させんことを請うた。同治十年は我明治四年に當るから、我國初期の留學生が西洋へ往つて居た時代と餘り變りはない。又國中でも、福建の船政學堂、江南製造學堂、南北洋水師學堂など、西洋の學術を授くる處はあつたけれども、其數
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