れから文學の方面でも支那文學が五大洲文化の精華たることを述べ、之を保存するは國粹保存の一大端で、如何に新學に長じても、本國の文章を綴り自由に思想を發表することが出來ぬなら、學問は何等の役にも立たぬ。官吏となつて奏議公牘さへも書けなかつたら、どうであるといつて居る。支那は所謂文字の國であつて、文章に用ゐる語は雅馴を以て主とする。然るに新學が流行するに從ひ、我國で製造された生硬な熟字が盛んに支那に入り、新名詞といつて彼國人士に歡迎されて居る。眞正に新學をした事のないものでも、文章や談論中に此等の熟字を使用して如何にも新學家らしき顏をするものが非常に多い。支那で新名詞を使ふ人といふ言葉がある。是れは恰も我國の高襟《ハイカラ》と同意義に用ゐられて居る。學堂總要には「外國の名詞を襲用することを禁じ、以て國文を存し、士風を端しくすべし」とある。これは重に張之洞の意見に本づいたものと思はれるが、其説に凡そ專門の熟語は、其本字に從つて之を用ゐるより外に致方はないけれど、日本に於ける通用名詞で、強いて用ゐるに及ばぬものを剿襲するのは、國文に害を及ぼし、又徒に輕佻浮薄なる少年の習氣を長ぜしめ、其害不少によつて、學堂に於て之を嚴禁すべしといふのである。少し話が横路にそれるけれど、其の下に所謂新名詞を列べて區別して居る。即ち第一は卑俗にして雅馴ならざるもので國體、國魂、膨脹、舞臺、代表等である、第二は支那でも從來使はないことはないが、意義が違ふもので犧牲、社會、影響、機關、組織、運動等は是である。第三は意味の分らぬ事はないけれども、必ず使用せぬとも宜しいもので、之は報告、困難、配當、觀念等の熟語である。學堂でかゝる禁令を出したけれども、中々實行は出來ぬ。又之を禁ずるなどいふ事は、抑々無理である。併し又一方より考ふれば「吾輩は應さに二十世紀の舞臺に活動して國家の膨脹を圖るべし」とか「生命を犧牲にして中國魂を發揮すべし」などいふ語の入つて居る文章を見せらるゝと、吾輩日本人でも支那古典的趣味の上から甚だ感心は出來ぬ。かゝる文章を讀むと誠に恐縮するが、支那の新學家は却て得意そうにやつて居る。これは熟字の使用に就いて言つたことだが、今一つは文章の構造で外國文と支那文の構造は全く違つたものであるのに、若し外國文直譯體など用ゐたら、それこそ大變で國文は其爲め純粹な形式を失ひ、中國の學術風教も亦將さに隨つ
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