自分は寝床の中にぐっすり睡っていて、寶兒もまた自分の側《そば》にぐっすり睡っている。寶兒が覚めれば一声「媽《マ》」と言って、活きた竜、活きた虎のように跳ね起きて遊びにゆくに違いない。
隣の老拱の歌声はバッタリ歇《や》んで咸亨酒店は灯火《あかり》を消した。單四嫂子は眼を見張っていたが、どうしてもこれがあり得ることとは信ぜられない。鳥が鳴いて東の方が白みそめ、窓の隙間から白かね色の曙の光が射し込んだ。
白かね色の曙の光はまただんだん緋紅色《ひこうしょく》を現わした。太陽の光は続いて屋根の背を照し、單四嫂子は眼を見張ったままぽかんと坐っていると、門を叩く音がしたので、喫驚《びっくり》して急いで門を開けた。門外には見知らぬ男が、何か重そうなものを背中に背負って、後ろには王九媽が立っていた。
おお、彼は棺桶を舁いで来たのだ。
半日掛りでようやく棺桶を蓋《ふた》することが出来た。單四嫂子は泣いたり眺めたり、何がどうあろうとも蓋することを承知しない。王九媽達は面倒臭くなり、終いにはむっとして、棺桶の側《そば》から彼女を一思いに引剥がしたから、そのお蔭でようやくどたばたと蓋することが出来た。
しかし單四嫂子は彼女の寶兒に対して実にもう出来るだけのことをし尽して、何の不足もなかった。
きのうは一串の紙銭を焼き、また午前中には四十九巻の大悲呪を焼き、納棺の時にはごく新しい晴れ著《ぎ》を著せ、ふだん好きなおもちゃを添え――泥人形一つ、小さな木碗二つ、ガラス瓶二本――枕辺《まくらべ》に置いた。あとで王九媽が指折り数えて一つ一つ引合せてみたが、何一つ手落ちがなかった。
この日藍皮阿五は丸一日来なかった。咸亨の番頭さんは單四嫂子のために二人の人夫を雇ってやると、一人が二百と十文大銭で棺桶を舁いで共同墓地へ行って地上に置いた。王九媽はまた煮焚きの手伝いをした。おおよそ手を動かした者と口を動かした者には皆御飯を食べさせた。
太陽が次第に山の端に落ちかからんとする色合いを示すと、飯を食った人達も覚えず家に帰りたい顔色を示した。そして結局皆家に帰った。
單四嫂子はひどく眩暈《めまい》を感じ、一休みすると少しは好くなったが、続いてまた異様なことを感じた。彼女はふだん出遇わないことに出遇った。有り得べきことではないがしかも的確に現れた。想えば想うほど不思議になった。――この部屋がたちま
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