気をつけて様子を見た。いくらか楽になったらしいが、午後になってたちまち眼を開き
「媽《マ》……」
 と一声言ったまま元のように眼を閉じた。睡ってしまったのだろう。しばらく睡ると、額や鼻先から玉のような汗が一粒々々にじみ出たので、彼女はこわごわさわってみると、膠《にかわ》のような水が指先に粘りつき、あわてて小さな胸元でなでおろしたが何の響もない。彼女はこらえ切れず泣き出した。
 寶兒は息の平穏から無に変じた。單四嫂子の声は泣声から叫びに変じた。この時近処の人が大勢集《あつま》って来た。門内には王九媽と藍皮阿五の類《るい》、門外には咸亨の番頭さんやら、赤鼻の老拱やらであった。王九媽は單四嫂子のためにいろいろ指図をして、一串《ひとさし》の紙銭を焼き、また腰掛二つ、著物五枚を抵当《かた》にして銀二円借りて来て、世話人に出す御飯の支度をした。
 第一の問題は棺桶である。單四嫂子はまだほかに銀の耳輪と金著《きんき》せの銀|簪《かんざし》を一本持っているので、それを咸亨の番頭さんに渡し、番頭さんが引受人になって、なかば現金、なかば掛で棺桶を一つ買い取ることにした。藍皮阿五は横合いから手を出して「そんなことは一切|乃公《おれ》に任せろ」と言ったが、王九媽は承知せず、「お前にはあした棺桶を舁《かつ》がせてやる」と凹《へこ》まされて、阿五はいやな顔をして「この糞婆め」といったまま口を尖らせて突立っていた。そこで番頭さんがこの役目を引受けて晩になって帰って来た。棺桶はすぐに仕事に掛らせたから夜明け前に出来上って来るとの返辞。
 番頭さんが帰って来た時には、世話人の飯は済んでいた。前にも言った通り七時前に晩餐を食うのが魯鎮の慣わしだからだ。衆《みな》は家へ帰って寝てしまったが、阿五はまだ咸亨酒店の櫃台《スタンド》に凭れて酒を飲み、老拱もまたほがらかに唱った。
 ちょうどその時單四嫂子は寝台のへりに腰を卸して泣いていた。寶兒は寝台の上に横たわっていた。地上には糸車が静かに立っている。ようやくのことで單四嫂子の涙交りの宣告が終りを告げると、※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》の辺が腫れ上がって非常に大きくなっていた。あたりの模様を見ると実に不思議のことである。あったことの凡《すべ》てがあったこととは思えない。どう考えてみても夢としか思えない。凡てが皆《みな》夢だ。あした覚めれば
前へ 次へ
全7ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
井上 紅梅 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング