薬
魯迅
井上紅梅訳
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)亮《あか》るい
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)咳嗽|入《い》りながら
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]
−−
一
亮《あか》るい月は日の出前に落ちて、寝静まった街の上に藍甕《あいがめ》のような空が残った。
華老栓《かろうせん》はひょっくり起き上ってマッチを擦り、油じんだ燈盞《とうさん》に火を移した。青白い光は茶館の中の二間《ふたま》に満ちた。
「お父さん、これから行って下さるんだね」
と年寄った女の声がした。そのとき裏の小部屋の中で咳嗽《せき》の声がした。
「うむ」
老栓は応えて上衣《うわぎ》の釦《ぼたん》を嵌《は》めながら手を伸ばし
「お前、あれをお出しな」
華大媽《かたいま》は枕の下をさぐって一|包《つつみ》の銀貨を取出し、老栓に手渡すと、老栓はガタガタ顫《ふる》えて衣套《かくし》の中に収め、著物《きもの》の上からそっと撫でおろしてみた。そこで彼は提灯《ちょうちん》に火を移し、燈盞を吹き消して裏部屋の方へ行った。部屋の中には苦しそうな噴《むせ》び声が絶えまなく続いていたが、老栓はその響《ひびき》のおさまるのを待って、静かに口をひらいた。
「小栓《しょうせん》、お前は起きないでいい。店はお母さんがいい按排《あんばい》にする」
「…………」
老栓は倅《せがれ》が落著いて睡《ねむ》っているものと察し、ようやく安心して門口《かどぐち》を出た。
街なかは黒く沈まり返って何一つない。ただ一条の灰白《はいじろ》の路《みち》がぼんやりと見えて、提灯の光は彼の二つの脚をてらし、左右の膝が前になり後《あと》になりして行く。ときどき多くの狗《いぬ》に遇《あ》ったが吠えついて来るものもない。天気は室内よりもよほど冷やかで老栓は爽快に感じた。何だか今日は子供の昔に還って、神通《じんづう》を得て人の命の本体を掴みにゆくような気がして、歩いているうちにも馬鹿に気高くなってしまった。行けば行くほど路がハッキリして来た。行けば行くほど空が亮るくなって来た。
老栓はひたすら歩みを続けているうちにたちまち物に驚
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