不便を感ずるからだ。ところが、ここに意外にも何ほどかの同窓生――頭の上にぐるぐると辮子を巻きつけた彼等がまずはなはだわたしを嫌い出し、監督も大《おおい》に怒って、わたしの学費の支給を差留め、中国に送り返すと言った。幾日も経たぬうちにこの監督さん自身も人から辮子を剪《き》られて逃走した。剪り取る人達の中には革命軍の鄒容《すうよう》という人もいた。この人もそれがため二度と留学することが出来ず、上海《シャンハイ》に帰って来て、後には租界監獄の中で死んだが、君はもうとうに忘れてしまったろうな。
四五年経つと家の都合がだいぶん以前とは違って来て、何か些細の仕事でもしなければ餓《う》えそうになるので是非なく中国に帰って来た。わたしは上海《シャンハイ》に著《つ》くや否や、一本の仮辮子《つけまげ》を買取り――その時二円の市価であった――家《うち》へ帰るまで付けて歩いた。母親は結局なんにも言わなかったが、よその人は一目見るとまずその辮子について研究し始め、それが似非物《にせもの》であると知るや、すぐに冷笑を浴せかけ、わたしを断頭の罪名に当てた。本家にあたるある者はわたしをお上に訴える準備までしたが、後で革命党が謀叛を起してあるいは成功するかも知れないと思ってこれだけは止《や》めた。考えてみると似非物《にせもの》は真物《ほんもの》のザックバランに優ることはない。そこで[#「そこで」は底本では「こで」]いっそのこと、辮子を廃し、洋服を著《き》て、大手を振って往来を歩いた。
街を通ると街中が笑い声になった。中には後《うしろ》へ跟《つ》いて来て罵る者がある。
『唐変木』
『仮洋鬼《チャーヤンタイ》』
そこでわたしは洋服を著ずに支那服に改めると、彼等の悪罵はいっそう激しくなった。
いよいよせっぱ詰った時、わたしは手に一本のステッキを持って出掛け、そういう奴等を片端から叩きのめした。で、彼等はようやく罵らなくなったが、まだ打ったことのない新しい地方へ行《ゆ》くとやっぱり罵られた。わたしはこの事について非常に悲哀を感じ、今も時々思い出すのである。それはわたしの留学中に新聞に掲載された本田|博士《はくし》の南洋及び中国視察談である。この博士は支那語も馬来《マレイ》語もわからなかった。ある人が『君は話が出来ないでどうして旅行する』と聞くと、博士は持っていたステッキを示し、『これがすなわち彼等の
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