言葉さ。これさえあれば皆解る』と答えた。わたしはこの記事を見た当座、腹が立って三日ばかり飯も食えなかった。ところがわたしは知らず知らず自分でそれをやっていたのだ。しかもそれが彼等に対して一番よくわかるのだ。
宣統《せんとう》初年わたしは当地で某中学の校長を勤めていたが、同僚には嫌われ、官僚には警戒され、終日|氷倉《こおりぐら》の中に坐っているような、刑場の側《そば》に立っているような憂鬱さを感じたが、実は何をしたわけでもない、ただ一本の辮子がなかったからだ。
ある日のこと四五人の学生が突然わたしの部屋に入って来た。
『先生、わたし達は辮子を剪ろうと思いますが[#「思いますが」は底本では「思いまがす」]』
『いけません』
『辮子がある方が好うございますか、無い方が好うございますか』
『無い方がいい』
『ではなぜいけないとおっしゃるのですか』
『する事が出来ないのです。お前達はまだ剪らない方がいい。待っていなさい』
彼等は何も言わず口を尖らせて出て行った。そうして結局剪り取ってしまった。
おや、まずいまずい、人声がガヤガヤした。わたしはそれでも知らん振りして、彼等のイガ栗頭と辮子頭と一緒に交って講堂に登るに任せた。
さはさりながらこの髪斬病《かみきりびょう》は伝染した。三日目には師範学堂の学生がたちまち六本の辮子を剪り落した。晩になると六名の学生は隔離された。この六名は学校に行《ゆ》くことも出来ず、家《うち》へ帰ることも出来ず、ずっと第一双十節の後まで、一ヶ月余りも愚図々々して、ようやく犯罪の烙印が消えた。
わたしはね、わたしもやはり同様だった。元年の冬、北京《ペキン》へ行《ゆ》くと人から幾たびも罵られたが、後ではわたしを罵った人が警察で辮子を剪られた。それから二度と人に罵られたことがない、しかし田舎は知らない」
Nは非常に得意になったが、たちまち沈んだ色を現わした。
「現在君達一派の理想家がここにまた女子の断髪云々をやかましく説いているが、それは少しも得る処無くして、かえっていろいろの苦痛を造り出すのだ!
現在すでに髪を斬った女がそれに因って学校へ入学が出来ず、あるいは学校から除名されつつあるではないか。
改革するにも、武器がない。苦学するにも働く工場がどこにある。
やはり元のように娘を人の家に嫁にやり、一切を忘れしむるのが、かえって幸福だ。彼女を
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