と馬鹿々々しくなって
「そんなことを誰がお前に教えてくれと言ったえ。草冠の下に囘数の囘の字だ」
孔乙己は俄に元気づき、爪先きで櫃台《デスク》を弾《はじ》きながら大きくうなずいて
「上出来、上出来。じゃ茴の字に四つの書き方があるのを知っているか」
彼は指先を酒に浸しながら櫃台の上に字を書き始めたが、わたしが冷淡に口を結んで遠のくと真から残念そうに溜息を吐《つ》いた。
またたびたび左《さ》のようなことがあった。騒々しい笑声が起ると、子供等はどこからとなく集《あつま》って来て孔乙己を取囲む。その時茴香豆は彼の手から一つ一つ子供等に分配され、子供等はそれを食べてしまったあとでもなお囲みを解かず、小さな眼を皿の中に萃《あつ》めていると、彼は急に五指をひろげて皿を覆い、背を丸くして
「たくさん無いよ。わしはもうたくさん持ってないよ」
というかと思うとたちまち身を起し
「多からず、多からず、多乎哉《おおからんや》多からざる也」
と首を左右に振っているので、子供等はキャッキャッと笑い出し、ちりぢりに別れゆくのである。
こういう風に孔乙己はいつも人を愉快ならしめているが、自分は決してそうあろうはずがない。ほかの人だったらどうだろう。こうしていられるか。
ある日のことである。おおかた中秋節の二三日前だったろうと思う。番頭さんはぶらりぶらりと帳〆めに掛り、黒板を取卸して、たちまち大声を出した。
「孔乙己はしばらく出て来ないが、まだ十九銭残っているよ」
そこでわたしもしばらく彼の見えないことを思い出したが、側《そば》に酒飲んでいる人が
「あいつは来るはずがない。腿の骨をぶっ挫いちゃったんだ」
「ええ、何だと」
「相変らず泥棒していたんだ。今度はあいつも眼が眩んだね。ところもあろうに丁挙人《ていきょじん》の家《うち》に入ったんだから、な。あすこの品物が盗み出せると思うか」
「そうしてどうした」
「どうしたッて? 謝罪状を書くより外《ほか》はあるめえ。書いたあとで叩かれ、夜中まで叩かれどおしで、もう一度叩かれたら、ポキリと言って腿の骨が折れてしまった」
「それからどうした」
「それから腿が折れたんだ」
「折れてからどうした」
「どうしたか解るものか。たぶん死んだろう」
番頭はその上訊こうともせず、のらりくらりと彼の帳合を続けていた。
中秋節が過ぎてから、風は日増しに涼しくな
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