りつくことが出来た。ところが彼には一つの悪い癖があって、酒が大好きで飲みだすと怠け出し、注文主も書物も紙も何もかも、たちまちの中《うち》に無くしてしまう。こういうことがたびたびあって、終《しまい》には字を書いてくれという人さえ無くなった。そこで日々の暮しにも差支え、ある場合には盗みをしないではいられなくなった。けれどもこの店では、彼は誰よりも品行が正しく、かつて一度も借り倒したことがない。現金のない時には黒板の上に暫時書き附けてあることもあるが、一月経たぬうちにキレイに払いを済ませて、黒板の上から孔乙己の名前を拭き消されてしまうのが常であった。
さて孔乙己はお碗に半分ほど酒飲むうちに、赤くなった顔がだんだん元に復して来たので、側《そば》にいた人はまたもやひやかし始めた。
「孔乙己、お前は本当に字が読めるのかえ」
孔乙己は弁解するだけ阿呆らしいという顔付で、その人を眺めていると、彼等はすぐに言葉を添えた。
「お前はどうして半人前の秀才にもなれないのだろう」
この言葉は孔乙己にとっては大禁物で、たちまち不安に堪えられぬ憂鬱な状態を現わし、顔全体が灰色に覆われ、口から出る言葉は今度こそソックリ丸出しの「之乎者也《ツーフーツエイエ》」だから、こればかりは誰だって解るはずがない。一同はこの時どっと笑い出し、店の内外はとても晴れやかな空気になるのが常であった。
この場合わたしが一緒になって笑っても番頭さんは決して咎めないし、その上番頭さん自身がいつもこういう問題を持出し、人の笑いを誘い出すので、孔乙己は仲間脱《なかまはず》れになるより仕方がない。そういう時にはいつも子供を相手にして話しかける。一度わたしに話しかけたことがあった。
「お前は本が読めるかえ」
「…………」
「本が読めるなら乃公が試験してやろう。茴香豆の茴の字は、どう書くんだか知ってるかえ」
わたしはこんな乞食同様の人から試験を受けるのがいやさに、顔を素向《そむ》けていると、孔乙己はわたしの返辞をしばらく待った後、はなはだ親切に説き始めた。
「書くことが出来ないのだろう、な、では教えてやろう、よく覚えておけ。この字を覚えていると、今に番頭さんになった時、帳附けが出来るよ」
わたしが番頭さんになるのはいつのことやら、ずいぶん先きの先きの話で、その上、内の番頭さんは茴香豆という字を記入したことがない。そう思う
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