り、みるみるうちに初冬も近づいた。わたしは棉入《わたいれ》を著て丸一日火の側《そば》にいて、午後からたった一人の客ぐらいでは※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶた》がだらりとせざるを得ない。するとたちまちどこやらで
「一杯燗けてくれ」
という声がした。よく聞き慣れた声だが眼の前には誰もいない。伸び上って見ると櫃台の下の閾《しきい》の上に孔乙己が坐っている。顔が瘠せて黒くなり何とも言われぬ見窄《みすぼ》らしい風体で、破れ袷一枚著て両膝を曲げ、腰にアンペラを敷いて、肩から縄で吊りかけてある。
「酒を一杯燗けてくれ」
番頭さんも延び上って見て
「おお孔乙己か、お前にまだ十九銭貸しがあるよ」
孔乙己はとても見惨《みじめ》な様子で仰向いて答えた。
「それはこの次ぎ返すから、今度だけは現金で、いい酒をくれ」
番頭さんは例のひやかし口調で
「孔乙己、またやったな」
今度は彼もいつもと違って余り弁解もせずにただ一|言《ごん》
「ひやかしちゃいけない」
というのみであった。
「ひやかす? 物を盗らないで腿を折られる奴があるもんか」
孔乙己は低い声で
「高い所から落ちたんだ。落ちたから折れたんだ」
この時彼の眼付はこの話を二度と持出さないように番頭さんに向って頼むようにも見えたが、いつもの四五人はもう集っていたので、番頭さんと一緒になって笑った。
わたしは燗した酒を運び出し、閾の上に置くと、彼は破れたポケットの中から四文銭を掴み出した。その手を見ると泥だらけで、足で歩いて来たとは思われないが、果してその通りで、彼は衆《みな》の笑い声の中に酒を飲み干してしまうと、たちまち手を支えて這い出した。
それからずっと長い間孔乙己を見たことがない。年末になると、番頭さんは黒板を卸して言った。
「孔乙己はどうしたろうな。まだ十九銭貸しがある」
次の年の端午の節句にも言った。
「孔乙己はどうしたろうな。まだ十九銭貸しがある」
中秋節にはもうなんにも言わなくなった。
それからまた年末が来たが、彼の姿を見出すことが出来なかった。そして今になったが、とうとう見ずじまいだ。
たぶん孔乙己は死んだに違いない。
[#地から4字上げ](一九一九年三月)
底本:「魯迅全集」改造社
1932(昭和7)年11月18日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあら
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