に入ると鑰《かぎ》を掛け、まるで鶏鴨《とりがも》のように扱われているが、このことはどうしてもわたしの腑に落ちない。
 四五日前に狼村《おおかみむら》の小作人が不況を告げに来た。彼はわたしの大《おお》アニキと話をしていた。村に一人の大悪人《だいあくにん》があって寄ってたかって打殺《うちころ》してしまったが、中には彼の心臓をえぐり出し、油煎《あぶらい》りにして食べた者がある。そうすると肝が太くなるという話だ。わたしは一言《ひとこと》差出口《さしでぐち》をすると、小作人と大アニキはじろりとわたしを見た。その目付がきのう逢った人達の目付に寸分違いのないことを今知った。
 想い出してもぞっとする。彼等は人間を食い馴《な》れているのだからわたしを食わないとも限らない。
 見たまえ。……あの女がお前に咬みついてやると言ったのも、大勢の牙ムキ出しの青面《あおつら》の笑も、先日の小作人の話も、どれもこれも皆暗号だ。わたしは彼等の話の中から、そっくりそのままの毒を見出し、そっくりそのままの刀を見出す、彼等の牙は生白《なまじろ》く光って、これこそ本当に人食いの道具だ。
 どう考えても乃公は悪人ではないが、古久先生の古帳面に蹶躓《けつまづ》いてからとても六《む》ツかしくなって来た。彼等は何か意見を持っているようだが、わたしは全く推測が出来ない。まして彼等が顔をそむけて乃公を悪人と言い布《ふ》らすんだからサッパリわからない。それで想い出したが、大アニキが乃公に論文を書かせてみたことがある。人物評論でいかなる好人物でもちょっとくさした句があると、彼はすぐに圏点《けんてん》をつける。人の悪口《あくこう》を書くのがいいと思っているので、そういう句があると「翻天妙手《ほんてんみょうしゅ》、衆と同じからず」と誉め立てる。だから乃公には彼等の心が解るはずがない。まして彼等が人を食おうと思う時なんかは。
 何《なん》に限らず研究すればだんだんわかって来るもので、昔から人は人をしょっちゅう食べている。わたしもそれを知らないのじゃないがハッキリ覚えていないので歴史を開けてみると、その歴史には年代がなく曲り歪んで、どの紙の上にも「仁道義徳」というような文字が書いてあった。ずっと睡《ねむ》らずに夜中まで見詰めていると、文字の間からようやく文字が見え出して来た。本一ぱいに書き詰めてあるのが「食人」の二字。
 このた
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