鴨の喜劇
魯迅
井上紅梅訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)北京《ペキン》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)六|絃琴《げんきん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]
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 ロシヤの盲目詩人エロシンコ君が、彼の六|絃琴《げんきん》を携えて北京《ペキン》に来てから余り久しいことでもなかった。彼はわたしに苦痛を訴え
「淋しいな、淋しいな、沙漠の上にある淋しさにも似て」
 これは全く真実の感じだ。しかしわたしは未《いま》だかつて感得したことが無い。わたしは長くここに住んでいるから「芝蘭《しらん》の室に入れば久しうしてその香を聞かず」ただ非常に騒々しく思う。しかしわたしのいわゆる騒々しさは、彼のいわゆる淋しさかもしれない。
 わたしは北京にいると、春と秋がないように感じるが、長く北京にいる人の話では、ここでは先《せん》にはこんなに暖かいことがなかった。地気が北転しているのだという。しかしわたしにはどうしても春と秋が無いように思われる。冬の末と夏の初めが受け継ぎ受け渡され、夏が去ったかと思うとすぐに冬が始まる。
 ある日、すなわちこの冬の末、夏の初めの夜間であった。わたしはたまたま暇を得たのでエロシンコ君を訪問した。彼はずっと仲密《ちゅうみつ》君の屋敷の中に住んでいたが、この時一家の人は皆|睡《ねむ》っていたので、天下は至極安静であった。彼は独り自分の臥榻《ねいす》の上に凭《もた》れて、黄金色《きんいろ》の長髪の間にはなはだ高い眉がしらをやや皺《しわ》めて、旧游《きゅうゆう》の地ビルマ、ビルマの夏の夜を偲んでいたのだ。
「こんな晩だ」
 と彼は言った。
「ビルマはどこもかしこも皆音楽だ。部屋の間、草の間、樹の上、みな昆虫の吟詠があっていろいろの音色が合奏し、いとも不思議な感じがする。その間に時々蛇の声も交って『シュウシュウ』と鳴いて蟲の声に合せるのではないか……」
 彼はあの時の気分を追想するかのように想い沈んだ。
 わたしは開いた口が塞がらなかった。こんな奇妙な音楽は、確かに北京では、未だかつて聴いたことがないのだから、いかに愛国心を振起しても弁護することは出来ない。彼は眼こ
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