いたが、阿Qは大層喜んだ。
 阿Qはまた大層|己惚《うぬぼ》れが強く、未荘の人などはてんで彼の眼中にない。ひどいことには二人の「文童《ぶんどう》」に対しても、一笑の価値さえ認めていなかった。そもそも「文童」なる者は、将来秀才となる可能性があるもので、趙太爺や錢太爺《せんだんな》が居民の尊敬を受けているのは、お金がある事の外《ほか》に、いずれも文童の父であるからだ。しかし阿Qの精神には格別の尊念が起らない。彼は想った。乃公だって倅《せがれ》があればもっと偉くなっているぞ! 城内に幾度も行った彼は自然己惚れが強くなっていたが、それでいながらまた城内の人をさげすんでいた。たとえば長さ三|尺《じゃく》幅三寸の木の板で作った腰掛は、未荘では「長登《チャンテン》」といい、彼もまたそう言っているが、城内の人が「条登《デョーテン》」というと、これは間違いだ。おかしなことだ、と彼は思っている。鱈《たら》の煮浸《にびた》しは未荘では五分切の葱の葉を入れるのであるが、城内では葱を糸切りにして入れる。これも間違いだ、おかしなことだ、と彼は思っている。ところが未荘の人はまったくの世間見ずで笑うべき田舎者だ。彼等は城内の煮魚さえ見たことがない。
 阿Qは「以前は豪勢なもん」で見識が高く、そのうえ「何をさせてもソツがない」のだから、ほとんど一《いっ》ぱしの人物と言ってもいいくらいのものだが、惜しいことに、彼は体質上少々欠点があった。とりわけ人に嫌らわれるのは、彼の頭の皮の表面にいつ出来たものかずいぶん幾個所《いくこしょ》も瘡《かさ》だらけの禿《はげ》があった。これは彼の持物であるが、彼のおもわくを見るとあんまりいいものでもないらしく、彼は「癩《らい》」という言葉を嫌って一切「頼《らい》」に近い音《おん》までも嫌った。あとではそれを推《お》しひろめて「亮《りょう》」もいけない。「光《こう》」もいけない。その後また「燈《とう》」も「燭《しょく》」も皆いけなくなった。そういう言葉をちょっとでも洩《もら》そうものなら、それが故意であろうと無かろうと、阿Qはたちまち頭じゅうの禿を真赤《まっか》にして怒り出し、相手を見積って、無口の奴は言い負かし、弱そうな奴は擲《なぐ》りつけた。しかしどういうものかしらん、結局阿Qがやられてしまうことが多く、彼はだんだん方針を変更し、大抵の場合は目を怒らして睨んだ。
 とこ
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