折柄《おりから》向うから来たのは、靜修庵《せいしゅうあん》の若い尼であった。阿Qはふだんでも彼女を見るときっと悪態を吐《つ》くのだ。ましてや屈辱のあとだったから、いつものことを想い出すと共に敵愾心《てきがいしん》を喚起《よびおこ》した。
「きょうはなぜこんなに運が悪いかと思ったら、さてこそてめえを見たからだ」と彼は独りでそう極めて、わざと彼女にきこえるように大唾を吐いた。
「ペッ、プッ」
 若い尼は皆目《かいもく》眼も呉れず頭をさげてひたすら歩いた。すれちがいに阿Qは突然手を伸ばして彼女の剃り立ての頭を撫でた。
「から坊主! 早く帰れ。和尚が待っているぞ」
「お前は何だって手出しをするの」
 尼は顔じゅう真赤にして早足で歩き出した。
 酒屋の中の人は大笑いした。己れの手柄を認めた阿Qはますますいい気になってハシャギ出した。
「和尚はやるかもしれねえが、おらあやらねえ」彼は、彼女の頬《ほっ》ぺたを摘《つま》んだ。
 酒屋の中の人はまた大笑いした。阿Qはいっそう得意になり、見物人を満足させるために力任せに一捻りして彼女を突放した。
 彼はこの一戦で王※[#「髟/胡」、138−9]のことも偽毛唐のことも皆忘れてしまって、きょうの一切の不運が報いられたように見えた。不思議なことにはピシャリ、ピシャリのあの時よりも全身が軽く爽やかになって、ふらふらと今にも飛び出しそうに見えた。
「阿Qの罰《ばち》当りめ。お前の世継ぎは断《た》えてしまうぞ」遠くの方で尼の泣声がきこえた。
「ハハハ」阿Qは十分得意になった。
「ハハハ」酒屋の中の人も九分《くぶ》通り得意になって笑った。

        第四章 恋愛の悲劇

 こういう人があった。勝利者というものは、相手が虎のような鷹のようなものであれかしと願い、それでこそ彼は初めて勝利の歓喜を感じるのだ。もし相手が羊のようなものだったら、彼はかえって勝利の無聊《ぶりょう》を感じる。また勝利者というものは、一切を征服したあとで死ぬものは死に、降《くだ》るものは降って、「臣誠惶誠恐死罪死罪《しんせいこうせいきょうしざいしざい》」というような状態になると、彼は敵が無くなり相手が無くなり友達が無くなり、たった一人上にいる自分だけが別物になって、凄《すさま》じく淋しくかえって勝利者の悲哀を感じる。ところが我が阿Qにおいてはこのような欠乏はなかった
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