たのか。そんなことはありそうにも思われない。
阿Qは拠所《よんどころ》なく彳《たたず》んだ。
遠くの方から歩いて来た一人は彼の真正面に向っていた。これも阿Qの大嫌いの一人で、すなわち錢太爺の総領息子だ。彼は以前城内の耶蘇《やそ》学校に通学していたが、なぜかしらんまた日本へ行った。半年あとで彼が家《うち》に帰って来た時には膝が真直ぐになり、頭の上の辮子が無くなっていた。彼の母親は大泣きに泣いて十幾幕も愁歎場《しゅうたんば》を見せた。彼の祖母は三度井戸に飛び込んで三度引上げらた。あとで彼の母親は到処《いたるところ》で説明した。
「あの辮子は悪い人から酒に盛りつぶされて剪《き》り取られたんです。本来あれがあればこそ大官《たいかん》になれるんですが、今となっては仕方がありません。長く伸びるのを待つばかりです」
さはいえ阿Qは承知せず、一途に彼を「偽|毛唐《けとう》」「外国人の犬」と思い込み、彼を見るたんびに肚《はら》の中で罵《ののし》り悪《にく》んだ。
阿Qが最も忌み嫌ったのは、彼の一本のまがい辮子だ。擬《まが》い物と来てはそれこそ人間の資格がない。彼の祖母が四度《よど》目の投身をしなかったのは善良の女でないと阿Qは思った。
その「偽毛唐」が今近づいて来た。「禿《は》げ、驢《ろ》……」阿Qは今まで肚の中で罵るだけで口へ出して言ったことはなかったが、今度は正義の憤《いきどお》りでもあるし、復讎の観念もあったかた、思わず知らず出てしまった。
ところがこの禿の奴、一本のニス塗りのステッキを持っていて――それこそ阿Qに言わせると葬式の泣き杖《づえ》だ――大跨《おおまた》に歩いて来た。この一|刹那《せつな》に阿Qは打たれるような気がして、筋骨を引締《ひきし》め肩を聳《そびや》かして待っていると果して
ピシャリ。
確かに自分の頭に違いない。
「あいつのことを言ったんです」と阿Qは、側《そば》に遊んでいる一人の子供を指さした。
ピシャリ、ピシャリ。
阿Qの記憶ではおおかたこれが今まであった第二の屈辱といってもいい。幸いピシャリ、ピシャリの響《ひびき》のあとは、彼に関する一事件が完了したように、かえって非常に気楽になった。それにまた「すぐ忘れてしまう」という先祖伝来の宝物が利き目をあらわし、ぶらぶら歩いて酒屋の門口《かどぐち》まで来た時にはもうすこぶる元気なものであった
前へ
次へ
全40ページ中11ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
魯迅 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング