ことばかりであった。ではあるが、わたしの麻酔法はこの時すでに功を奏して、もはや再び若き日の慷慨激越《こうがいげきえつ》がなくなった。

 S会館の内に三間《みま》の部屋がある。言い伝えに拠ると、そのむかし中庭の槐樹《えんじゅ》の上に首を縊って死んだ女が一人あった。現在槐樹は高くなって攀じのぼることも出来ないが、部屋には人の移り住む者がない。長い間、わたしはこの部屋の中に住んで古碑を書き写していた。滞在中尋ねて来る人も稀れで、古碑の中にはいかなる問題にもいかなる主義にもぶつかることはない。わたしの命はたしかに暗《やみ》の中に消え去りそうだったが、これこそわたしの唯一のねがいだ。夏の夜は蚊が多かった。蒲団扇《かばうちわ》を動かして槐樹の下に坐り、茂り葉の隙間から、あの一つ一つの青空を見ていると、晩手《おくて》の槐蚕《やままゆ》がいつもひいやりの頸首《えりくび》の上に落ちる。その時たまたま話しに来た人は、昔馴染の金心異《きんしんい》という人で、手に提げた折鞄《おりかばん》を破れ机の上に置き、長衫《ながぎ》を脱ぎ捨て、わたしの真前《まんまえ》に坐した。犬を恐れるせいでもあろう。心臓がまだ跳《お
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