われても仕方がない」
 そうだ。わたしにはわたしだけの確信がある。けれど希望を説く段になると、彼を塗りつぶすことは出来ない、というのは希望は将来にあるもので、決してわたしの「必ず無い」の証明をもって、彼のいわゆる「あるだろう」を征服することは出来ない。そこでわたしは彼に応じて、遂に文章を作った。それがすなわち最初の一篇「狂人日記」である。一度出してみると引込んでいることが出来なくなり、それから先きは友達の嘱《たの》みに応じていつも小説のような文章を書き、積り積って十余篇に及んだ。
 わたし自身としては今はもう、痛切に言の必要を感じるわけでもないが、やはりまだあの頃の寂寞の悲哀を忘れることが出来ないのだろう、だから時としてはなお幾声か吶喊《とっかん》の声を上げて、あの寂寞の中に馳《か》け廻る猛士を慰め、彼等をして思いのままに前進せしめたい。わたしの喊声は勇猛であり、悲哀であり、いやなところも可笑しいところもあるだろうが、そんなことをいちいち考えている暇はない。しかしまた吶喊と定《き》めた上は、大将の命令を聴くのが当然だから、わたしは往々曲筆を慈《めぐ》んでやらぬことがある。「薬」の瑜兒《ゆじ》の墳墓の上にわけもなく花環を添えてみたり、また「明日《みょうにち》」の中では、単四嫂子《たんしそうし》は終に子供の夢を見なかったという工合には書かなかった。それは時の主将が消極を主張しなかったからである。自分としてはただ、自分の若い時と同じく現在楽しい夢を作る青年達に、あの寂寞の苦しみを伝染させたくないのだ。
 こんな風に説明すると、芸術に対するわたしのこの小説の距離の遠さがよくわかる。そうして今もなお小説という名前を頂戴し、いっそ有難いことには集成の機会さえある。これはどうあっても福の神が舞い込んだといわなければならぬ。福の神が舞い込んだことは自分にははなはだ気遣いだが、しかし短い人生に読者があるということは、結局愉快なことである。だからわたしは遂に自分の短篇を掻き集めて印刷に附し、上述の次第で「吶喊」となづけた。
  一九二二年十二月三日[#地から6字上げ]北京において魯迅しるす



底本:「魯迅全集」改造社
   1932(昭和7)年11月18日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下
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