ことばかりであった。ではあるが、わたしの麻酔法はこの時すでに功を奏して、もはや再び若き日の慷慨激越《こうがいげきえつ》がなくなった。

 S会館の内に三間《みま》の部屋がある。言い伝えに拠ると、そのむかし中庭の槐樹《えんじゅ》の上に首を縊って死んだ女が一人あった。現在槐樹は高くなって攀じのぼることも出来ないが、部屋には人の移り住む者がない。長い間、わたしはこの部屋の中に住んで古碑を書き写していた。滞在中尋ねて来る人も稀れで、古碑の中にはいかなる問題にもいかなる主義にもぶつかることはない。わたしの命はたしかに暗《やみ》の中に消え去りそうだったが、これこそわたしの唯一のねがいだ。夏の夜は蚊が多かった。蒲団扇《かばうちわ》を動かして槐樹の下に坐り、茂り葉の隙間から、あの一つ一つの青空を見ていると、晩手《おくて》の槐蚕《やままゆ》がいつもひいやりの頸首《えりくび》の上に落ちる。その時たまたま話しに来た人は、昔馴染の金心異《きんしんい》という人で、手に提げた折鞄《おりかばん》を破れ机の上に置き、長衫《ながぎ》を脱ぎ捨て、わたしの真前《まんまえ》に坐した。犬を恐れるせいでもあろう。心臓がまだ跳《おど》っている。
「あなたはこんなものを写して何にするんです」
 ある晩彼はわたしの古碑の鈔本《しょうほん》をめくって見て、研究的の質問を発した。
「何にするんでもない」
「そんならこれを写すのはどういう考《かんがえ》ですな」
「どういう考もない」
「あなたは少し文章を作ってみる気になりませんか」
 わたしは彼の心持がよくわかった。彼等はちょうど「新青年」を経営していたのだが、その時賛成してくれる人もなければ、反対してくれる人もないらしい。思うに彼等は寂寞を感じているのかもしれない。
「たとえば一間の鉄部屋があって、どこにも窓がなく、どうしても壊すことが出来ないで、内に大勢熟睡しているとすると、久しからずして皆悶死するだろうが、彼等は昏睡から死滅に入って死の悲哀を感じない。現在君が大声あげて喚び起すと、目の覚めかかった幾人は驚き立つであろうが、この不幸なる少数者は救い戻しようのない臨終の苦しみを受けるのである。君はそれでも彼等を起し得たと思うのか」
 と、わたしはただこう言ってみた。すると彼は
「そうして幾人は已に起き上った。君が著手《ちゃくしゅ》しなければ、この鉄部屋の希望を壊したとい
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