作男・ゴーの名誉
THE HONOUR OF ISRAEL GOW
チェスタートン Chesterton
直木三十五訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)師父《しふ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)兼|厨夫《ちゅうふ》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「鼻+(嗅−口)」、第4水準2−94−73]
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        一

 嵐吹く銀緑色の夕方、灰色のスコッチ縞の着衣につつまれた師父《しふ》ブラウンは、灰色のスコットランドのある谷間の涯《はて》に来た、そして奇妙なグレンジル城を仰ぎ見た。城はその窪地の一方の端を袋町のように塞いでいた、それがまた世界の涯のように見えた。嶮《けわ》しい屋根や海緑色の石盤瓦茸小塔《せきばんかわらぶきことう》の聳《そび》え具合が仏蘭西《フランス》蘇格蘭《スコットランド》折衷式《せっちゅうしき》の城《シャトー》の様式なので、城は師父ブラウンのような英蘭《イングランド》人にはお伽話《とぎばなし》に出て来る魔女のかぶる陰険な尖り帽を思い出させるのであった。そして周囲にゆらいでいる松林は小塔の緑色《りょくしょく》と対比して無数の渡鳥《わたりどり》の群のように黒く見えた。こうした人を夢幻の世界か、または睡《ねむ》たげな魔界のような雰囲気の中に惹込むのは、ただこの景物ばかりがさせる技ではなかった、なぜならば、スコットランドの貴族の家柄に、人間並をはるかに越して濃厚に纏綿《てんめん》しているところの高慢と狂気と不思議な悲哀との雲がここにも絡みついているからであった。スコットランドは遺伝という毒薬を二服持っている、貴族という血の意識とカルヴィン教徒の因襲の意識とがそれだ。
 坊さんはグラスゴーまで用事があって来たので、今一日を割いて、友人なる素人探偵フランボーに会いにやって来たのであった。フランボーは最近伝えられたグレンジル伯の死説の真偽を確めるために今一人警察の本職探偵と倫敦《ロンドン》からやって来てこのグレンジル城に滞在していた。疑問の人物グレンジル伯は十六世紀の昔、国内の心根《こころね》の曲った貴族の間においても、剛勇と乱心とたけだけしい奸智とで彼等を縮み上《あが》らせた種族の最後の代表者ともいうべき男であった。
 幾世紀にわたってグレンジル城の城主は莫迦《ばか》の限りをつくした、今ではもう莫迦も種ぎれになったろうと思われても決して無理はないのであった。ところが事実は今の最後の伯爵は、まだ誰も手をつけたことのない珍趣向で、伝家のしきたりを完成させた、すなわち彼は姿をくらましたのだ。といっても彼が外国へでも行ったという意味ではない。どう考えても彼はまだ城内に生きているはずである。もし彼がどこかに居《い》るものとすれば、事実彼の名は教会名簿にも大冊の赤い華族名鑑にもまだ載っているのだ、だが誰にも彼れを太陽の下に見たと云うものがないのだ。もしも何人《なんぴと》か彼を見た者があるとすれば、それは馬丁《ばてい》とも次男ともつかない孤独の召使の男である。彼はひどい聾《つんぼ》なので、早合点《はやがてん》の人は彼を唖者《おし》だと思い込み、それより落付いた人も彼を薄鈍物《うすのろ》だといった。痩せてガラガラした、赤毛の働き男で、頸《くび》はいかにも頑固だが魚のような眼をもった彼はイズレールゴーという名で通っている。そしてこの物佗しい館《やかた》につかえる一個の無言の召使である。けれども彼が馬鈴薯《ばれいしょ》を掘る絶倫な精力と判で押したように規則正しく台所へ消えて行くことは、見る人に、彼が誰か高位の人のために食事の用意でもしているんじゃないか、そうとすれば不思議な伯爵はやはり城内にかくれているのではないかという印象を起させるのであった。そこで世人《せじん》が突込んで実際は伯爵が生きているんじゃないかと訊くとゴーは頑固に首をふってそんなはずはないという。ある朝市長と牧師が城に呼ばれた。そこで両人の者はその作男《さくおとこ》兼馬丁兼|厨夫《ちゅうふ》がたくさんの兼職の中へ今一つ葬儀屋の職を加えて、やんごとない主人を棺《ひつぎ》の中に釘づけにしておいたという事実を発見した。この奇妙な事実がその後《ご》どの程度まで取調べられたものか、またはまるで取調べられなかったものか今以てよくは解っていないようだ。何しろフランボーが二、三日前に倫敦《ロンドン》から北行《ほくこう》して来るまでというもの正式の取調べはまだ行われてなかったくらいだから、行われぬままにしかし、グレンジル伯の遺骸は(それが遺骸だとすれば)小岳《しょうきゅう》の小さな墓地に今日まで葬られてあるわけだ。師父ブラウンが仄暗《ほのくら》い樹苑《じゅえん》を通って城影《じょうえい》の下に来た時、空には厚雲《あつぐも》がかぶさり、大気は湿っぽく雷鳴が催していた。緑ばんだ金色の夕映《ゆうばえ》の名残を背景にして黒い人間の姿が影絵のように立っているのを彼は見た。妙な絹帽《シルクハット》をかぶった男で肩に大きな鋤《すき》を担いでいる。その取合せが妙にかの寺男《てらおとこ》を思わせた。師父ブラウンはその聾の下男が馬鈴薯を掘るという事をふと思い出して、さてはその訳がと合点したのであった。彼はこの蘇格蘭《スコットランド》の百姓がどうやら解けたと思った。官憲の臨検に対する故意から黒帽《こくぼう》をかぶらなければならんと考えたのであろう心持《こころもち》も読める、――
 そうかと言ってそのため馬鈴薯掘りは一時間たりとも休もうとはしない倹約心《けんやくしん》も解った。坊さんが通りかかると吃驚《びっくり》して迂散臭《うさんくさ》そうな眼付をしたのもこうした型の人間に通有な油断のない周当さを裏書するものである。正面の大戸がフランボー自身によって開かれた。側には鉄灰色《てっかいしょく》の頭髪をした痩せぎすな男が、紙片《かみきれ》を手にして立っていた。倫敦《ロンドン》警視庁のクレーヴン警部だ。玄関の間《ま》は装飾の大部分が剥がれてガランとしていた。がこの家《うち》の陰険な先祖の仮髪《かつら》をかぶった蒼白いフフンというような顔が一つ二つ古色蒼然たる画布の中から見下《みおろ》していた。二人について奥の間へはいって行くと、ブラウンは二人が長い柏材《かしわざい》の卓子《テーブル》に席をしめていた事をしった。テーブルの一方の端には走書《はしりがき》のしてある紙片《かみきれ》がひろがっており、そして側にはウイスキー瓶と葉巻とが載っている。その他《た》の部屋には所々バラバラに物品が列べられてある。正体の何といって説明のつかない品ばかりである。あるものはキラキラ光る砕《こわ》れ硝子の寄集めのようである。あるものは褐色の塵芥《じんあい》の山のように見える。あるものはつまらぬ棒切れのように見えた。
「ホウまるで地質学展覧会を開業している様じゃなあ」とブラウンは腰を下《おろ》しながら、褐色の塵芥や硝子の破片の方へ頭をちょっと突出していった。
「いや地質学展覧会ではない」とフランボーが答えた。「心理学展覧会と言っていただきたい」
「ああ、後生ですから来られる早々無駄言ばかりは御免下さい」と警察探偵は笑いながら云った。
「まあ聞きたまえ、吾々《われわれ》は今グレンジル卿についてある事件を発見するところです。卿は狂人であったのです」
 高い帽子をいただき鋤を担いだゴーの黒い影法師が暮れ行く空に朧げな外線を劃《かく》しながら窓硝子を過ぎて行った。師父ブラウンは熱心にそれを見送っていたがやがてフランボーに答えて云った。
「なるほど伯爵については妙な点があるに相違ないとわしは思っている。でなくば自分を生埋めにさせるわけはなくまた事実死んだとしたらあんなに慌てて葬らせようとしなくともよいはずじゃ。しかし君、狂人とはいかなる点を以て云うのじゃな」
「さあそこですが」とフランボーが云った。「[#「「」は底本では欠落]このクレーヴン君が家《うち》の中で蒐集した物件の品名目録を今読上げてもらうから聞いて下さい」
「しかし蝋燭《ろうそく》がなくてはどうもならんなア」とクレーヴンが不意に言った、「どうやら暴模様《あれもよう》になって来たようだし、これでは暗くて読めん」
「時にあなたがたの蒐集中に蝋燭らしいものがあったかな?」ブラウンが笑いながら云った。
 フランボーは鹿爪《しかつめ》らしい顔をもたげた。そして黒い眼をこの友人の上にジッと据《す》えた。
「それがまた妙なんでしてね、蝋燭は二十五本もありながら燭台は影も形も見えんです」
 急に室内は暗くなって来た、風は急に吹荒《ふきすさ》んで来た。ブラウンは卓子《テーブル》に添うて蝋燭の束が他のゴミゴミした蒐集品の中に転がっているところへ来た。がふとその時彼は赤茶色の芥《あくた》の山のようなものを見出《みいだ》して、その上にのしかかってみた。と思うまに激しいくさめの音が沈黙をやぶった。
「ヤッ! これはこれは嗅煙草《かぎたばこ》じャ!」とブラウンが云った。
 彼は一本の蝋燭を取上げて叮嚀《ていねい》に火を点け、元の席に帰って、それをウイスキー瓶の口にさした。気の狂ったようにバタバタとはためく窓を犯して吹込む騒々しい夜気《よき》が長い炎をユラユラと流れ旗のように揺めかした。そしてこの城の四方に、何|哩《マイル》となくひろがる黒い松林が孤巌《こがん》を取巻く黒い海のようにごうごうと吠えているのを彼等はきいた。
「では目録を読上げてみましょう」とクレーヴン探偵は鹿爪らしい顔をして一枚の紙を取上げた。「もっとも目録とは云いながら、実物はすべて城中のあちこちに変な風にチラバッておったものを一所《ひとところ》へ集めたものではあるですが。師父さんも城内の装飾が大部分引はがされたり、もぎ取られたりした歴々たる形跡のあるのを既に御覧の事とは思いますが、ここにただ一部屋か二部屋、何者かが住んでおったものと見えて、――それがあの下男のゴーでないことは確かです――粗末ではあるがしかし小綺麗に整頓した室《へや》があるのです。では読上げましょう――
 第一項 おびたゞしい宝石《はうせき》の山。九分九厘まではダイヤモンド。しかも皆貴金属より抜取られあるものにして金属は見えず。もちろんこのオージルビー家とて家族者《かぞくしや》の身に帯びし宝石は無数にありたるならんも、今ここに記す宝石類は皆極めて一般の場合特別なる装飾品に象眼《ざうがん》さるゝ種類の品ならざるはなし、オージルビーの家族はそれ等の宝石類を抜取りて、あたかも銅貨の如く常にポケット内に弄びしものにはあらざるか。
 第二項 剥出しなる嗅煙草のおびたゞしき山。煙草入《たばこいれ》にも入れてなく、嚢《ふくろ》にも入れてなくして、暖炉《ストーブ》枠の上、食器棚の上、ピアノの上|等《とう》至る所に一塊《ひとかたまり》づゝにして載せてある。その様あたかも老伯がポケット内にこれをさぐり、あるひは容器の蓋を開くの懶《ものう》きに絶えずとしてしかせしならんが如く見ゆ。
 第三項 屋内のここかしこに不思議なる金属の細片の小さき山。あるものはぜんまいの如く、あるものは精微なる歯車の形せり。これ等皆あたかも機械仕掛の玩具中より取外せしものゝ如し。
 第四項 蝋燭二十五本。しかも燭台らしきもの一もなきを以てこれ等は空瓶の口にでも差して使用せざるべからず。
「さて、師父さん、あなたにお願いしておきたいのは奇々妙々なる事実が我々の予想以上じゃという点に御注目下さらんことです。[#「。」は底本では欠落]もっとも謎の中心問題に関しては我々にも意見はあります、すなわち我々は一見して故伯爵には何か故障のようなものがあったんだなということをすぐに覚《さと》りました。吾々は、彼がここに生きているかどうか、またここに死んでいるかどうか、彼を埋葬したというあの赤毛の異形《いぎょう》な男が彼の死去と何等かの関係があるかどうかを知ろうとしてここへ参
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