方へ引き寄せようとするのを、彼女は満身の力を籠めて憎々しげに突き飛ばした。それでも彼はなお進もうとする、その顔には残酷醜悪な色が溢《みなぎ》っている。二人の視線ははたと合って、互に屹立《きつりつ》したまま深讐仇敵《しんしゅうきゅうてき》のごとくに猛烈に睨み合った。
二人は黙って睨み合った。やがてドーブレクは椅子にかけたが、兇悪、冷酷な相貌して口唇《くちびる》には深刻な皮肉が浮かんで来た。彼は何事か条件を持出《もちだ》しているらしく、卓子を叩き叩き頻りに怒鳴り立っている。これに反して彼女は微動だもせず、傲然と立像の様に直立してはいたが、その眼は不安定に動いているらしかった。ルパンは雄々しくも悩み深き顔を瞬きもせず見詰めつつ、彼女が果たしていかなる思考《かんがえ》を持っているかを看破せんと少しも眼を放たず見ていると、不思議、彼女は軽く頭をめぐらすと同時に、その腕が気付かぬほど徐々に動き出した。身体の蔭になって彼女の腕は静かに動く。とその手は卓子の上を匐《は》う様にそろそろと進んで行く。ルパンがふと気が付いてみると、卓子の一端に水入があって、その硝子《がらす》栓には頭の方に黄金《こがね》の飾りが付いている。やがて手は水入に届いた。捜《さぐ》る様にしてそっと栓を抜いた。そしてチラッと振り向いて一目見るや否や、手早く栓を元に嵌《は》めた。きっと女が望んでいる品物でなかったに相違ない。
『オヤッ、不思議。あの女もやはり水晶の栓を探しているぞ。こりゃ事件《こと》がいよいよ錯雑《さくざつ》して来たわい』
なおも息を殺して怪しい女客の様子を覘《うかが》っていると驚いた。彼女の表情はみるみる変って、その顔は恐ろしく物凄くなって来た。そしてその手は絶えず卓子の上を辷《すべ》って書籍をそっと押し除《の》けつつその間に燦《さん》として光る短刀に近づいたが、たちまちそれをキッと握りしめた。ドーブレクはあいかわらず熱心に喋り続けている。その背部には光る刃を持った繊手《せんしゅ》が静かに静かに振り上げられて行く。ルパンは女の血に餓えた凄まじい眼光が火の出る様に短刀を突き刺すべき頸《くび》の辺《あたり》にそそがれているのを知った。
腕を差し上げて、女はやや躊躇《ちゅうちょ》の色が見えたが、それも束の間、キリキリッと歯噛みをすると一緒に振り上げた刃がキラリッと光った。
電光石火、ドーブレクの身体はサッと椅子から流れて、匕首一閃《ひしゅいっせん》の繊手は哀れ宙に支えられてしまった。
彼はこんな事は日常の茶飯事だと云わぬばかりに別に驚きも怒りもしないらしい。そして刃物三昧には馴れ切った男と見えてちょっと肩を聳《そびや》かしたまま、黙って室内を大股に歩き出した。
女は刃物を投げ棄《す》てて泣き出した。両手を顔に押し当てて泣く、啜《すす》り泣くたびに頭から爪先《つまさき》まで身を慄《ふる》わせる。
代議士は再び彼女のそばに来てなおも卓を叩きつつ何事か囁《ささや》いている。女は断然|頭《かしら》を振ったが彼がなお執拗に云うや、足をもって床を踏み鳴らしつつ、ルパンにも聞き取れるほどの声で決然《きっぱり》と云った。
『厭です……厭です……』
すると彼は何も云わずに、女が着て来た厚い毛皮の襟付の外套を取って、これをその肩にかけてやった。女は襟を立てて顔を包んだ。
女は出て行った。
ドーブレクの生活はすこぶる規律的で、ただ警官の張込をといた暁方《あけがた》に二三の来客があるばかりであった。そこで日中は二名の部下を見張らせ夜中はルパン自身で監視する事にした。
前夜と同じく午前四時頃一人の男が訪ねて来た。例によって覗いていると、その男はドーブレクに対して流涕《りゅうてい》して哀訴し合掌して嘆願し、最後にはピストルを振《ふる》って威嚇したが、ドーブレクはセセラ笑って取りあわない。ついにその男は千|法《フラン》の紙幣三十枚を代議士の前に差し出して帰って行った。門外に見張っていた部下から翌朝になって前夜の男は独立左党の領袖《りょうしゅ》ランジュルー代議士で生活困難家族多数という報告が来た。
三日後に前大臣で、元老院議員ドショーモンが来、その翌日ポナパル党出身代議士アルビュフェクス侯爵が来、同じく哀訴嘆願の百万遍を尽《つく》して、最後に巨額の金や貴金属を取られた。
『きゃつは何かの秘密を握って、それを種に恐喝して金を捲き上げておるに相違ない。俺が幾日見張っていても仕様がない。何か局面を転換させずばなるまいが……と云って脅迫された連中に会ったところで、実を吐く気づかいは無い……』
ルパンは思案に暮れて黙考《もっこう》していると、ビクトワールが電話室でドーブレクの電話を立聴《たちぎ》いていた。
ビクトワールの話によると、ドーブレクは今夜八時半にある婦人と会見し、共に
前へ
次へ
全35ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
ルブラン モーリス の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング