ない。
『ウヌッ、残念!』と彼は唸った。二時間以来胸の中《うち》で煮えくりかえる様になっていた憤怒の情は押え切れなくなってついに爆発した。『駑畜生《どちくしょう》ッ! どうしても俺には解らねえ』
 不可解の問題が次ぎ次ぎに発生した。しかもそれが皆暗中模索の体為《ていたらく》、いくら考えてもまとまりが付かなかった。ジルベールが彼に水晶の栓を渡した。ジルベールが彼に手紙を送って寄越した。それが皆一時に消えて無くなった。
 今までに幾多の悪戦苦闘、冒険に冒険を重ねてきたさすがの彼も、こんな怪奇な障害に出会《でくわ》した事は一度もなかった。

[#8字下げ][#中見出し]※[#始め二重括弧、1−2−54]三※[#終わり二重括弧、1−2−55]怪代議士[#中見出し終わり]

 刑事等が家宅捜索をやった日の翌日、ドーブレク代議士が昼飯を外で食って帰って来ると、女中のクレマンが彼を引き止めて、大変いい料理女を見付けたと告げた。
 数分後御目見えに出て来た料理女は信用の出来る立派な身元証明書を持《もっ》ていた。相当な年齢《とし》のなかなか元気ものらしく、家事の仕事は人手を借らずにどんな事でも遣って除《の》けると云う。ドーブレクの希望している、条件を全部そなえていた。それについ先頃まで議員ソールバ子爵の家に奉公していたというので、ドーブレクは早速電話で照会すると、同家の執事が出て来て、その婦人なら申分《もうしぶん》ない料理女だからと云う返事であったので即座にこの女を傭《やと》うことに定《き》めた。彼女が行李《こうり》などを持ち込むと、すぐに家の中の拭き掃除にかかり、食事の用意をした。
 ドーブレクは夕食を済ますと、ブラリと出かけて行った。十一時頃女中のクレマンが寝てしまうと、料理女はそっと庭に降り、前後左右に深い用心をしつつ鉄門を半ば開いた。男がヌッと現れた。
『あなたですか?』
『そうだ、俺だよ、ルパンだよ』
 彼女はルパンを、案内して三階にある自分の室《しつ》へ引き入れた。
『また何か始めましたね。いつまでそんな事を為《な》さるんです! そしていつでもわたしを手先にして、ちっともこの婆やを気楽にさせては下さらないのですね』
『まあそう云うなよ。ビクトワール、(「813」及び「黒衣の女」参照)上品で、銭金《ぜにかね》で動かされないものは他には無いからね、そんな時にはいつも婆やを思い出して、骨を折ってもらいたくなるんだ』
『そんな事をして、あなたは面白がっていらっしゃる。わたしを色々な危い所へ連れ込むのが面白いんでしょう、きっと!』
『でもまあ、何事も神様の思召《おぼしめし》でございましょう……仕方がございません。……でわたしは、どんな仕事をするのですか?』
『まず第一に、俺を隠匿《かくま》っておく事だ。この部屋の半分だけ俺に貸しておくれよ。俺は長椅子の上へ寝りゃたくさんだから、それからおれに必要なものを食わせてくれる事だ。それから今一つおれの云う通りに、おれと一緒に捜し物をするんだ』
『何を捜すんですか?』
『前に話した事のある貴重な品だ』
『何んですか、それは?』
『水晶の栓さ』
『水晶の栓!……まあ!妙なものを!もし見付からなかったら……』
 ルパンは静かに彼女の腕を握って、真面目な調子で、
『それが見付からないと大変な事になる。そら知っているだろう、お前も可愛がっていたあのジルベールの首が無くなるんだ、ボーシュレーと一緒に……』
『ボーシュレーなんぞは構いませんよ、どうなったって……あんな悪党は……だが可哀想にジルベールが……』
『乳母《ばあや》は今日の夕刊を見たろう? 事件《こと》がどうも面白くないんだ。ボーシュレーは書記を殺した下手人《げしゅにん》がジルベールだと云い張っている。ところが悪い事には、ボーシュレーの使った短刀はジルベールの持ってたものなんだ。それに今朝も有力な証人が出ている。何《な》にしろジルベールは利口な様でも年が若いだけに度胸が出来ていないから、ちょっとした事実を隠してみたり、曖昧な陳述をしてみたり、あるいはつまらぬ事を云い抜けようとするから、ますます不利になってしまうと、こう云う訳なんだから、乳母《ばあや》も一ツ大いに力になってくれ』…………

 その夜、深更になって代議士が帰って来た。
 以来数日間、ルパンはドーブレクと、生活を共にする様になった。彼がちょっとでも外出するとルパンは早速秘密捜索を行った。ルパンは彼一流の調査方法を講じた。すなわち各部屋を幾つにも区劃《くかく》し、その一ツずつについて細心な注意と整然たる順序をもって研究するのだ。のみならず、代議士の一挙手一投足から、その無意識にする動作に、表情に、あるいはまた彼の読む書籍、彼の書く手紙、あらゆるものは一ツ残らず敏感なルパンの目をもって監視した。
 
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