る憤怒の影から彼は新しい敵手《あいて》の力量を知った。そしてこれがこの事件の大立物たる事を否定する事は出来なかった。
 ドーブレクの糞度胸、警視庁の猛者を向うに廻して平然たる自信力、勝手に家宅捜索をさせて嘲笑しておる不敵さのみならず、自己を覗《ねら》う九人目の男がある事を知りつつ、その悠然落ち付き払っておる剛胆、傲岸、沈着、普通人の出来ない芸当で、すべてこれ歴々たる勝算あるもののごとき態度は、強力《ごうりき》、不屈、剛気、闊達、大胆不敵、普一通《なみひととお》りの人間ではない事を証明しておる。
 しかしその勝算とは何か? いかなる秘策を把持しておるか? 誰れが秘密の鍵を握っておるのか? いかなる次第で敵味方に分れたか? ルパンは全然何等知っていない。彼は相手の陣立も、武器も、勢力も、秘略も、何も知らずに、ただ盲目滅法《めくらめっぽう》、無茶苦茶に双方の間に飛び込んでしまった形になっておる。しかしただ双方必死の努力の焦点となっておるのは一個の水晶の栓である事だけは知っておる! ここに一ツ面白いのは、ドーブレクが彼の仮面を看破し得なかったことだ。ドーブレクは彼を刑事と思った。ドーブレクにしろ、警視庁にしろ、この事件の中《うち》へ第三の怪物が飛び込んで来た事を未だに知らないでおる。それだけが彼の身上《しんしょう》だ。彼が最も重要視しておる行動の自由を得しむる唯一の身上である。
 彼は何の遠慮もなく、最前ドーブレクが警視総監プラスビイユ宛に届けろと渡した手紙の封を切った。中にはこんな手紙が這入っていた。
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「プラスビイユ君、君の手の届く処にあった。君はそれに手を触れた! 今一息、それでよかったんだ……が君は発見すべく余りに愚《おろか》だ。我輩をして一敗地にまみれしむべく、君以上の発見をし得るものはまずない。あわれフランス! 
 プラスビイユ、さようなら、しかし、今後もし現場《げんじょう》で君を捕まえたらば、御気の毒ながら、捻り潰すよ。
    プラスビイユ君。[#地から7字上げ]ドーブレク拝」
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「手の届く処……」と読み終えたルパンが呟いた。『あのくらいな悪党になると思い切って真実の事をズバズバ云うものだ。最も簡単なる隠し場所は最も安全なりと云うからな。ともかくにだ……ともかくにと……取調べる必要があるぞ。なぜドーブレクがあの様に厳重に監視されておるか、一ツ大いに取調べる必要があるぞ』
 ルパンが、早速秘密探偵局について取調べさせた処によると、
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「アレキシス・ドーブレク[#「ドーブレク」は底本では「トーブレク」]。一昨々年ブーシュ・ドュ・ローヌ県選出代議士、無所属、政見は明瞭ならざるも、常に巨額の金員を散じて選挙民の好感を買い、地盤すこぶる強固なり。別に財産無し。しかれども巴里《パリー》本邸の外《ほか》アンジアン及びニイスに別荘を有し、はなはだ贅沢なる生活を為せるも、その財源をいずこに求むるや不明。元来政界に特殊関係、または党派的勢力なきにもかかわらず、政府に対して絶大の勢力を有し、その要求の貫徹せざるものなし」
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『こりゃ職業調査だ』とルパンは報告書を読み返しながら云った。『俺の要求するのは素行調査だ。秘密調査だ。本人の内的生活に関する報告だ。これがあれば暗中模索の俺の活動もまた非常に楽になるし、ドーブレク[#「ドーブレク」は底本では「ドーブレグ」]に関係合《かかわりあ》って無駄骨を折るか折らぬかの見当がつくんだ!……フーム、こうしておる内にも時は経つ……』
 当時ルパンが平素の住宅としていたのは、凱旋門の傍のシャートーブリヤン街であった。そこにミシェル・ボーモンという変名で家を借りていた。住心地のいい家《うち》で、アシルと云う腹心の部下と二人|限《き》り、この下男代りの部下がルパンに対して各方面から来る電話を細大もらさず主人に通じる役を引受けていた。
 この家に帰ったルパンは女工風の女が一時間も前から尋ねて来て待っておると聞いて尠《すくな》からず驚いた。
『何んだって? だって今までに一人だって尋ねて来たものが無かったじゃないか? 若い女か?』
『いいえ、帽子も冠《かむ》らず、頭からショールを被っていますから、顔はよく解りませんが……』
『誰れに会いたいてんだ?』
『ミシェル・ボーモンさんにと云いました』と下男が答えた。
『可怪《おかし》いなあ。して用件は?』
『アンジアンの事件とだけしか云いません……ですから私は……』
『うむ! アンジアン事件! じゃあ女は俺がその事件に関係しておる事を知っておるんだな!……会おう!』
 ルパンはズカズカと客間に行って、その扉《ドア》を開けた。
『オイ、何を云ってるんだ。誰も居ないじゃないか』
『居ませ
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