これですなあ!』
と見ていたが、やがて拡大鏡を出して、窓硝子へ透かして熱心に調査をした結果、
『クラリスさん、これは御返しします。……偽物です……』
『エッ、偽物? え、そんな……』
『ええ、棄てるとも焼き棄てるとも勝手になさい……実は連判状の用紙ですが、肉眼では見えませんが、透かして見ると紙の中に十字のマークが打ってあるのです。ところがこれにはそれが無いのです……』
聞いたメルジイ夫人の顔色はみるみる物凄く蒼ざめて来た。驚いたのはルパンのニコルである。のみならず狂乱に近くなった彼女は取り止めのない言葉を口走ると共に肌身離さぬ短剣をスラリと引き抜いて我れと我が咽喉《のど》に擬した。
『アッ、危い! 何をするッ!』とニコルは電光の如く短剣を奪った。
『あなたはジルベールをきっと救うと誓った私の言葉をお忘れですか?……ジルベールのために生きなさい。私が附いている以上きっとジルベールの死刑は執行させません……きっとです、きっとジルベールは殺さしませんッ』そう云って彼はブラスビイユに向い、
『では、閣下、真の連判状さえ手に入ればきっと二人の生命は赦[#「赦」は底本では「赧」]してくれますね。じゃ、暫時御待ちを願たい。二十七人連判状については、一時間、いや二時間以内に私が再びここへ参りまして、御相談致しましょう』と命令的に云った。そして夫人の手を取って引摺る様にしてほとんど駈足でフイと室外へ去ってしまった。ブラスビイユはしばらく唖然として呆気にとられていた。ニコルと云う家庭教師、下らぬ男とばかり思っていたが、今日計らずもその仮面を脱ぎかけた処からサッするに、明察果断しかも気鋒俊英の大才物だ。なかなか普通の人間では無さそうだ。はて何者だろうか……プラスビイユはブルッと戦慄した。きゃつだ!
彼は廊下へ飛び出すと、刑事課長に会った。
『君、今女連れの男を見たろう? すぐ五六名を連れて追駈けてくれ。それからニコルと云う奴の家を監視して、すぐ捕縛しろ、これが逮捕状だ……』
『でも……おや、捕縛するのはニコルでしょう? ですが、これにはアルセーヌ・ルパン……』
『アルセーヌ・ルパンもニコルも同一人間だ……』
翌日、ニコルは再び飄然とプラスビイユを訪れた。
『実にどうも大胆不敵、図々敷い野郎だ』とプラスビイユは呟いた。
ニコル文学士は不相変《あいかわらず》例の洋傘《こうもり》や汚い古帽子や手袋などを抱えて応接室に待っていた。
『ええ、昨日御約束致しました件について御伺い致しました。思いがけなく手間取りまして、何とも申訳がございません』
『いかがです、昨日のお言葉通り真物《ほんもの》が手に入りましたか?』
『ハア、実はドーブレクは巴里《パリー》に居りませんでして、自動車で巴里《パリー》へ参る途中でございました』
『君は自動車を持っているかね?』
『ええ、旧式のボロボロ自動車でございます。でドーブレクを自動車に乗せまして、と申しても実は、旅行鞄《トランク》の中へ押入れまして、自動車の屋根の上へ乗せて、巴里《パリー》へ参る途中でした。が、つい機械に故障がございましたために手間取った様な次第でございます』
プラスビイユは驚愕の顔でニコルを眺めた。人相を見ただけではどうしてもそれとは想像も付かないが、その談り出した行動、ドーブレク誘拐手段は――咄《とつ》!怪物!人間をトランクに詰めて、しかも自動車の屋根で運搬するなどと云う離れ業は、ルパンならでは出来ない事だ。しかもそれを他人の前で平然として事もなげに云ってのける者もまた、ルパンならではできない。さては奴、いよいよただの鼠じゃない。
『ところで連判状は手に入りましたか』とプラスビイユはさり気ない体で問うた。
『持っています』
『真物ですか?』
『無論、正真正銘、擬い無しの連判状です』
『ローレンの十字のマークがありますかね?』
『あります』
プラスビイユは沈黙した。激烈な感情が総身に迫って来た。今や闘争はこの相手、非常の力を持ったこの怪物を相手に起って来たのだ。しかも当の敵たるアルセーヌ・ルパン、かの猛峻な怖るべき怪盗アルセーヌ・ルパンが面と向かって、十二分に武装したものが寸鉄を帯びざる敵と相対せるものの如く冷然としてその目的に突進しつつ平静、端然と落ち付き払っているのを思って、プラスビイユは知らず知らず身慄をした。正面から堂々と攻撃するは危険だ。彼はジワジワと攻め立てようと考えた。
『でドーブレクが温順《おとな》しくそれを渡したかね?』
『ドーブレクは渡しません。私が引奪くったのです』
『じゃ、腕力を用いたのだろう?』
『なあに、そんな事は致しません』とニコルは笑いながら云った。『ええ、私は堅い決心を致しました。ドーブレク先生が私のボロ自動車のトランクの中に乗かって、最大速力で走りながら、時々ク
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