て参りました。目の当りに会ってみますれば、あんな無益者《やくざもの》でも、やはり我子は可愛うございます。それに弟のジャックに頬摺をして、泣いて詫びますので、私もあれの罪を許してやりました』と云って婦人は声を低くめた。
『その後父の事、またドーブレクの奸悪な手段等を話して聞かせますとジルベールも涙を流して口惜しがり、親の讐《あだ》、家の仇《かたき》、また自分の敵であるあのドーブレクを命にかけても生かしてはおかないと、ごく秘密の裡にあの児と力を協せて事を計っておりました。そして最初あれの考えでは第一にあなたの御力をからなければならないと……』
『そうとも……ぜひそうなければならないです』とルパンが叫んだ。
『ええ、私もそう存じました。けれども、悲しい事には、御承知の通りジルベールは至ってお人好しですから、つい、仲間のものにだまされて巻き込まれてしまいました』
『ボーシュレーでしょう?』
『ハイ。あの男は実に強欲な狡猾な奴で、私どもがあの男を信じたのがそもそも間違いでございました。これは後でグロニャルとルバリュに聞きましたんですが、ボーシュレーは連判状を手に入れると、あなたを警察に引き渡した上、やはりドーブレクのやった様に、連判状を材料《たね》に金を強請《ゆす》ろうと計っていたのでした』
『フム、馬鹿野郎』とルパンが呟いた。『あんなコンマ以下の人間が……で、何んですか、あの寝室にやった羽目板の細工も?…………』
『ええ、皆ボーシュレーの指図でございます』と夫人は力無げに云った。
 夫人の話はなかなかに尽きなかった。彼女等はボーシュレーを参謀にしてドーブレクとルパンとに対する闘争の準備として、両方に例の羽目板細工を施し、侏儒《こびと》を使って、ルパンの秘密を捜らしていたが、夫人も最後には、ボーシュレーの悪辣を嫌って愛児ジャックを使ったとのことであった。ルパンの手に入った、水晶の栓を二度奪い返したのも彼女であった。
『けれども、あなた、あの水晶の栓の中には何もございません。何一ツ入れるべき隠処《かくしどころ》もありません。紙一枚入っておりませんですからあのアンジアンの夜襲も無駄、レオナールの殺害も無益《むえき》、忰《せがれ》の捕縛も無益《むだ》、私の努力のすべても無益《むだ》になってしまいました』
『エッ、なぜ? なぜです?』
『彼品《あれ》はドーブレクがストーアブリッジのジョン・ハワード商会に註文した時、見本として送って来た品に過ぎないのでございます。』
 もしこの時、夫人の深刻な悲痛の顔が、彼の眼の前になかったならば、ルパンは、この運命の悪戯による痛烈な皮肉に対して哄笑を禁じ得なかったであろう。
 彼女はハワード商会に手を入れて、栓の突端に微かな傷のあるのが見本だと云う事まで取調べていた。そして、見本の栓を奪う事によって、ドーブレクのために目的を感付かれては万事休するので、ジャックを使ってドーブレクの手元へ人知れず隠したのであった。
 ルパンが出現してドーブレクの邸内に潜み出してから、彼女の活動はルパンが怖ろしくて手も足も出せなくなった。そのために例の手紙や、また劇場に来てはならないなどと云う電報をも打ったのであった。のみならず彼女は一度彼を訪問した。そして一切を打開けてその助力を乞おうとした。しかし……
『しかし、あの時にはジルベールの手紙を横取せましたね。だがジャック君ではなかったはずですが……フム、自動車の中に待たしてあったのを、窓から引き入れた?……そうでしょう、そうでもしなければあの手紙が奪れる訳ではないですから、で手紙の内容は?』
『ジルベールは大層、あなたを怨んで、仕事を奪ったばかりでなく、部下を見殺しにするとは余りだと書いてございましたので私も半信半疑の心持になって、とうとう逃げ出してしまいました……』
 その後彼女がジルベールを救出すには最後にただ一ツの方法しか遺らなかったのである。彼女はドーブレクが執念、蛇の如き欲求を入れなければならないのだ、その欲求を入れれば……ジルベールは助かる。しかし、夫の仇、倶に天を戴き得ない深讐綿々たる怨の敵……とは云え、繊弱《かよわ》い女の身として、一ツには我児の愛に惹かされて、今後あるいは身を殺して仇のために左右せられんともかぎらない。……思えば呪の運命に弄れた不幸な彼女、その愁《うれい》に沈む夫人の心情、人として何人かこれを目前に見て看過し得よう。いわんや侠気自ら許すルパンである。彼の眼底に同情の涙が湧くと同時に、その眼光に、正義の光が物凄く輝き出した。
『よくお聴きなさい。私はあなたに誓ってジルベールを救います……私はあなたに誓う……ジルベールは決して殺させない!解りましたか……この私の眼の黒い間は、天下いかなる権力者たりとも、断じてジルベールの頭に指一本でも触れさせません……
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