ん》船といえますか。それにまた、沿岸定期の蒸気船を、ホノルル入港まえに、追いこしたではありませんか。あなたの海難報告書は、うそだ。うその報告書は、受け取るわけにはいきません」
 と、さきに私が、日本領事館を通じてとどけておいた、英文の海難報告書を、私の前につきかえした。
 まったく、意外であった。そして、腹が立った。しかし、君らも、外国へ行く人だ、将来、これににたことに出あうだろうが、こんな時、おこったら負けだ。話せばわかることなのだ。
 そこで私は、遭難したありさまを、はじめから、ゆっくりと、くわしく説明した。いや、教えてやったのだ。ことは、全日本船の信用にかかわる大問題だ。いや、ハワイ在留の日本人の名誉と信用にかかわるのだ。私は、一生けんめい、真心をもって、事実をわからせようとした。そして最後に、
「これでもあなた方は、この海難報告書を、うそといわれるか」
 と、念をおした。
 誠は天に通ずるという。そのとおりだ。アメリカの役人は、三人とも、立ちあがった。そして、そのなかの一人は、大きな手をさしのべて、いきなり私の手を、かたくにぎって、強く動かしつつ、いった。
「船長。よくわかった」
 三人のいかめしい顔は、にこにこ顔になった。もう一人の役人がいった。
「よし、われわれは、船長の同情者になろう。そうだ、同情の手はじめに、入港税、碇泊船税、また、水先案内料と、曳船《ひきぶね》料金は、役所から寄付しよう。そのほか、なにか助力することはないか」
 私はそこで、
「さしあたって、よい飲料水がほしい」
 というと、
「なに、よい飲料水。たやすいことだ。水船《みずぶね》は、船長が船に帰るまえに、龍睡丸に横づけになっているだろう。電話で、すぐ命令を出すから……」
 といった。
 私は役所を出ると、すぐその足で、この始末を報告のため、日本領事館へ行った。領事は、
「それはよかった。それから、あなたの船の修繕費は、全部、在留日本人が、寄付することにきまりましたから、安心して、じゅうぶんに修繕してください」
 と、いわれた。これを聞いたときは、同胞のありがたさが、まったく骨身にしみた。そして、その金額は、一週間であつまった。

 こうして、ホノルルの役人の、思いちがいを正して以来、龍睡丸のひょうばんは、急によくなって、外国新聞が、毎日なにか、私たちをほめた記事を、のせはじめた。
 それは、龍睡丸の乗組員の、礼儀正しいこと、品行も規律も正しいこと、全乗組員が、一てきも酒を飲まぬことであった。
 世界中の海員の親友は、酒である。外国人は、みんなそう信じていた。ところが、龍睡丸の連中《れんじゅう》が、酒と絶交している事実を見せていたのだ。外国人は、このことに、まったくびっくりしてしまったのである。
 ちょうどこの時、ホノルルの港には、アメリカの耶蘇《ヤソ》教布教船が、碇泊していた。この船は、キリスト教をひろめるための船で、南洋方面へ行く用意をしていた。そして、船の仕事が仕事なので、品行の正しい、禁酒の海員をほしがっていた。しかし、世界中に、そんな海員がいるはずがない。こう思いこんでいるところへ、龍睡丸乗組員のひょうばんである。そこで布教船では、龍睡丸の乗組員の、運転士をはじめ、水夫、漁夫までも、じぶんの船へ引っぱろうとした。
 そしてかれらは、
「龍睡丸のような船では、また遭難するだろう。こんどは助からないぞ。月給は安いだろう。食物は麦飯か。気のどくなことだ。ところが布教船では、毎日、三度の飯は洋食だよ。月給はうんと高い。そのうえ、制服と靴と帽子が、年に四回もでる。船は大きくてきれいで、部屋は一人部屋だ。風呂《ふろ》は毎日はいれるし、水はふんだんに使えるんだ。航海は、しけ[#「しけ」に傍点]知らずの碇泊ばっかり。それに、お説教が毎日きかれる。どうだ、龍睡丸から下船してしまえ。こっちへ来れば、毎月、国もとへ送金ができる。親孝行になる」
 こんなことをいっては、龍睡丸乗組員の心を、動かそうとした。しかし、われら十六人の心は、びくともしなかった。
 これがまた、ひじょうに外国人を感動させ、「龍睡丸乗組員は、世界の海員のお手本だ」といって、日本領事館に、龍睡丸の義捐金を申しこんだり、品物の寄贈を申しこんできた。
 領事は、
「御好意はありがたいが、船の修繕は、日本人だけですることになっているから、金銭はお受けしません。品物だけは、龍睡丸へ送りましょう」
 と、外国人の義捐金は、きっぱりとことわった。
 こうして、船の修繕は、順調にすすんで、いよいよ四月四日、出帆ときまった。

 二週間まえの龍睡丸は、折れた帆柱、はさみをなくしたカニのように、錨をうしない、水タンクはこわれて、傷だらけな、みじめな船として、入港したのであったが、今は、新しい帆柱が高くたち、錨もそろった。何から何まで、丈夫に修繕ができあがり、生まれかわった元気なすがたになったのだ。
 四月四日の朝となった。龍睡丸には、水先案内人が乗り組み、港の曳船にひかれて、いよいよ港外に向かった。
 大日章旗《だいにっしょうき》が、船尾にひるがえっている。これもみな、兄弟である日本人と、友である外国人たちの、あたたかい心によるものだ。港に碇泊している外国船の人たちも、甲板に出て、曳船にひかれて出て行くわが龍睡丸へ、帽子をふり、手をあげて、見送ってくれるではないか。
 黒煙をあげて走る曳船は、港の口から外海《そとうみ》に、龍睡丸を、ひきだした。港外には、いい風がふいている。
 曳船と龍睡丸をつなぐ、曳索《ひきづな》をはなった。水先案内人は、それではと、私とかたい握手をして、
「では、ごきげんよう船長。愉快な航海をつづけて、たくさんのえものをつんで、日本に安着してください」
 といって、龍睡丸が舷側《げんそく》にひいてきた、水先ボートに、乗りうつろうとして、大きな声でさけんだ。
「郵便をだす人はないか。故郷へ、手紙を出す人はないか。これが最終便だよう――」
 しんせつな水先案内人のことばだ。もう龍睡丸は、日本につくまで、何ヵ月の間、手紙を出すてだてはないのだ。
「ありがとう。もう、みんな出しました」
 それでかれは、にっこりうなずいて、手をあげた。そして、曳船に、こんどは、自分の小さな水先ボートをひかせて、港へ帰っていった。
 見かえる港も、だんだん遠くなる。さらば、ホノルルの港よ。思いがけないことで、多くの内外人から受けた好意を、しみじみありがたいと思うにつけても、心にかかるのは、占守《しゅむしゅ》島の人たちだ。どんなに、龍睡丸を待っていることであろう。もう、矢のように飛んで帰らなくては――しかし、私たちのゆくてには、思いがけない運命が、待っていたのだ。

   故国日本へ

 龍睡丸《りゅうすいまる》は、いまこそ、大自然のふところにいだかれて、大海原の波の上に勇ましくうかんだ。そして、気もちよくふく風に帆をはって、ハワイ諸島の無人の島々にそって進む航路に、船首を向けた。
 まっすぐに日本に向かうと、距離は近くなるが、とちゅう、海が深くて、魚がすくない。それで、まわりみちではあるが、島をつたって、進むことにしたのだ。
 それは、この島々のまわりには、魚や鳥が、多くいるにちがいないから、そのようすを、よく調査するのと、もう一つは、昔は、このへんの島近くに、まっこう鯨《くじら》が多くいた。それを追いかけた捕鯨船が、無人の小島を、発見したこともあったのだ。それだのに近ごろは、まっこう鯨が、いっこうにすがたを見せなくなってしまった。それはたぶん、鯨のたべものであるイカやタコが、このへんにいなくなったのであろう。
 あるいは、海流がかわると、鯨もいなくなることがあるから、海流がかわったのかもしれない。そういうことも調べてみたい。
 もし、鯨が見つかったら、どんなに勇ましい、鯨漁ができるであろう。たのしみの一つに、これが加えてあった。
 それから、飲料水についても、考えねばならなかった。タンクは、大小二個あるといっても、船が小さい。もし、飲料水がなくなった場合、どの島にも、水があるわけではない。ミッドウェー島に船をよせて、清水《せいすい》をくみこんで行こう。これも、島づたいに行く、理由の一つであった。
 しかし、島づたいといっても、一つの島からつぎの島へは、帆船であるから、風のつごうにもよるが、三日も四日もかかるのである。
 さて、どの島でも、近くに行くと、魚がたくさんいた。また、海鳥――アホウドリ――が、たいへんにむらがっていて、ふかもよくつれた。しかし、いくら漁があるからといっても、一つ島でぐずぐずしてはいられない。一日も早く帰らなければならない急ぎの航海だ。島々をしらべることも、適当にきりあげては進んだ。
 はじめに見たのが、ニイホウ島であった。荒れはてた、岩ばかりの島で、人は住んでいない。しかし、大昔には、人が住んでいたので、ひくい石の壁でかこまれた、式場らしいところや、たくさんの石像《せきぞう》が残っているし、また、昔、船で渡ってきた人たちが残していったものもあって、博物館のような島である。海鳥も、魚も、多かった。
 つぎに見たのは、海底火山《かいていかざん》がふきだした熔岩《ようがん》でできた、ごつごつの島であった。島の根は、海中にするどくつき立って、あくまで、波と戦っていた。
 大洋からおしよせる青い波の大軍は、一列横隊となって、規則正しく、間隔をおいて、あとからあとから、岩の城めがけて、突進し、すて身のたいあたりをする。そのひびきは、島をゆるがし、まっ白にくだけた波は、くずれ落ちて、岩の根にくいつく。また、はねあがるしぶきは、高い絶壁をおおい、熱帯の強い日光があたって、絶壁の肩に、七色の虹《にじ》をかけている。このたたかいは、はてもなく、くりかえされているのである。
 船の人たちは、ときどき、こんなことを、まのあたりに見て、今さらのように、大自然の力強さを、しみじみと教えられるのである。そうして、この自然の力にくらべれば、人間の力は、よわいものだとわかればこそ、かえって、精神力が、ふるいたつのであった。

 荒い岩山には、ぽかっと、まっ黒な岩窟《がんくつ》らしい穴が、あちこちに見える。たくさんの海鳥が、あやしい鳴声をして、みだれ飛んでいる。岩に、つばさを休めている海鳥のすがたも、やさしくは見えない。この島は、ネッカーとよぶ、無人島であった。
 それは午前十時ごろであった。つりをはじめると、ふかが大漁である。やつぎばやに、大きなのがつれる。
 三メートルもあるふかを、たくみに甲板にひきあげるのは、見ていても痛快だ。しかし、つり針を大きな口からはずすときの、手の用心。甲板にころがしてからは、足の用心。ちょっとのゆだんもできない。するどい歯でがぶりやられたら、手も足も、きれいに食い切られてしまう。魚つりというよりは、大きさといい、猛烈さといい、猛獣狩《もうじゅうがり》とでもいう気分である。
 帆柱の根もとで、甲板につまれたふかから、せっせと、ひれを切りとっていたのは、北海道|国後《くなしり》島生まれの漁夫、国後であった。肩はばのひろい、太い手足、まる顔のわか者である。かれと向かいあって、ひれのしまつをしているのは、帰化人の小笠原《おがさわら》であった。青い目で、ひげむしゃの小笠原は、五十五歳の、老練な鯨とりで、この船のなかでは、最年長者。青年船員からは、父親のように親しまれて、「おやじさん」とか、「小笠原老人」とかよばれている、ほんとうの海の男である。

 国後は、島を見ていたが、
「ねえ、おやじさん、あの島は、なんだかすごい島だね」
 というと、小笠原は、
「うん、ただの島じゃないよ。それについちゃあ、話があるんだよ」
 と、ひれをにぎったまま、島を見つめた。
 このことばを、通りがかった、浅野練習生と、秋田練習生が、聞きとがめた。二人の練習生は、いま、船長室で、午前の学科を終って、ノートと書籍をかかえて、船首の自室へ、ころがっているふかを、よけたり、またいだりしながら、帰るとちゅうであった
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