「おやじさん。何か、わけがあるのかい、岩でごつごつのこの島には」
「そうだよ。わかい生徒さんなんかは、聞かないほうがいいんだ」
 浅野練習生は、首をつきだした。
「教えてくれたまえ。なんでも聞け、それが勉強だ。船長が、いつでもいわれるじゃないか。ねえ、おやじさん」
「そうだなあ――話しておくほうがいい、なあ」
 小笠原は、立ちあがって、島を指さした。
「いいかい、あの山は、八十四メートルの高さだ。無人島だが、大昔に、人が住んでいた跡があるんだ。それよりも、あの山に、三十いくつの墓石が、ならんでいるのだよ」
「三十いくつの墓石」
「それはね、昔、外国船の難破した人たちが、この無人島に流れついて、七年間も、岩窟《がんくつ》に住んでいた。そして、うえ死にしたということだ」
 浅野も、秋田も、国後も、あらためて、岩山のいただきを見つめた。
 南海の強い日光に、岩のかたまりは悪魔のような影がつけられ、そのあたりを、一陣のあらしのように飛びさる、海鳥の群。
 島の根もとに、がぶり、がぶり、とかみついている、波の白い牙《きば》。
 故郷を遠く幾千カイリ、この無人の孤島に、三十いくつの立ちならぶ墓石となった人々のことを思って、秋田生徒は、うるんだ声でいった。
「七年も生きていて、うえ死にするなんて……魚がつれなくなったのかなあ――」
 このとき、とつぜん、だれかがうしろから、生徒二人の、肩をたたいた。二人は、びっくりして、ふりかえると、漁業長が立っていた。
 漁業長は、ポケットから、何枚かのビスケットをつかみ出して海へ投げた。
 船のまわりを飛んでいた海鳥の群が、もつれあって、さっと突進し、ビスケットを一枚のこさずくわえとり、舞いあがって、たべてしまった。
「どうして、鳥にえさをやるのですか」
 浅野生徒がきくと、漁業長は、目顔で島をさして、
「島のお墓へ、そなえたのだよ」
「でも、鳥が、横どりしてしまいました」
「鳥がとっても、心は通るさ」
 一同は、しんみりとして、島を見つめた。
 小笠原が大きな声で、
「だれだって、おしまいはお墓だよ。あたりまえのことだ。しかし、えらいもんだ、七年もがんばったのだよ。まったくえらい。どうだい、わかい連中は、がんばれるかい」
 三人の青年は、ほとんど同時に、
「がんばるとも、十年だって――」
「本船のわかい連中は、えらい。これで、おいらも安心したよ。あっはっはっは……」
 小笠原老人は、めいった気分を、笑いとばしてしまった。
 こういっているうちにも、船はよく走って、陰気な岩山も、怒濤《どとう》のひびきも、いつか後方はるか、水平線のかなたに、だんだん小さくなっていった。しかし、三人の青年船員の胸には、三十いくつの墓の話が、なかなか消えなかった。
 ――まさか、自分たちもそんなことに――
 と、思うのではなかったが……

   海がめの島、海鳥の島

 いま、われらの龍睡丸《りゅうすいまる》は、波をけたてて、ハワイ諸島にそって、北西に進んで行く。
 ある日、夜が明けてみると、近くに、フレンチ・フリゲート礁《しょう》が見えるではないか。フレンチ・フリゲート礁とは三日月形をした大きな珊瑚礁《さんごしょう》で、この珊瑚礁のなかには、小さな砂の島が、いくつもならんでいた。私は、そのなかの一つの砂島をえらんで、龍睡丸を、その一カイリ沖に碇泊《ていはく》させた。
 さっそく、島をしらべる一隊を上陸させるため、漁船をおろし、漁業長が、水夫と漁夫五人をつれて、砂島に上陸した。
 漁船が、砂島につき、六人が上陸すると、黒い大きなものが、いくつも動いている。
 なんであろうかと近づいてみると、それは、甲羅の大きさが一メートルもある、海がめの正覚坊《しょうがくぼう》が、のそのそしているのであった。なかには、鼈甲《べっこう》がめ(タイマイ)もまじっていた。
「よし、みんなつかまえてしまえ」
 一同は、海がめをかたっぱしから、あおむけにひっくりかえした。
 これでかめは、重い甲羅を下にして、みじかい足や首を、ちゅうに動かすばかりで、どうすることもできないのだ。この大がめは、頭の方の力がたいへん強くて、頭の方からひっくりかえそうとすれば、大人が三、四人かかって、やっとだ。しかし、うしろの尾の方からなら、一人でころりとひっくりかえされるのだ。かめの重さは、百三十キログラムから、二百二十キログラムぐらいもあった。
 このかめを、もっこに入れて、
「えっさ。こらしょ」
 と、二人ずつでかついで、波うちぎわにつないである漁船に、つみこんだ。
 みんなは、大漁にすっかり喜んでしまって、どんどんかめを運んだので、浜の漁船は、あおむけのかめがもりあがって、かめでいっぱいとなり、船べりから、波がはいりそうだ。
 漁業長は、大声でどなった。
「もうたくさんだ。そんなにつむと、かめで船がしずむよ。なんべんにも、本船へ運べ」
 本船では、私を先頭に、るす番が総出で、漁船が運んでくるかめを受け取っては、甲板に、あおむけにつみかさねて、大漁に大まんぞくであった。
 この、海がめの珊瑚礁をあとに、本船はさらに北西に進んだ。
 三角形の島で、頂上がまっ白い島の近くを通った。この島は、ガードナー島といって、草も木も生えていないが、頂上がまっ白いのは、鳥のふんであった。
 海鳥の多いこと、まったく鳥の島だ。遠くから見ると、むれ飛ぶ鳥で、空が白がすり、そうして、島は霜ふりに見える。
 この島を通りこしてから、二日めのことである。ちょうど正午ごろ、水平線を見はっていた見張当番が、はるかな水平線に、髪の毛が二、三本生えているように見えるものを見つけた。これが、レサン島だ。
 ひくい珊瑚島で、白い砂の上には、緑のつる草や雑草が、いちめんにしげっていて美しい。二本の椰子《やし》の木と、一本のイヌシデの木が立っているのが、この島の特徴で、航海者のいい目じるしになる。この島には、十何年もまえから、アメリカ人が、たくさんの労働者をつれて渡ってきて、大がかりで鳥のふんを採取しては、ハワイ島へ送って、サトウキビの肥料にしていた。
 島のまわりの海には、魚がひじょうにたくさんいる。つまり、えさになる魚が多いから、鳥がむらがるのである。

 龍睡丸が、ホノルルを出帆してから、いつしか一ヵ月以上の日がすぎて、無人島のリシャンスキー島に近くなったときは、五月の中ごろになっていた。
 船を、リシャンスキー島の近くへよせて、錨《いかり》を入れ、ここで、船の位置を知るのに使う、精確な時計、経線儀が、正しいかどうかをしらべた。それは、午前、正午、午後に、太陽の高さを、六分儀ではかって、地球の緯度と経度とを計算して、しらべてみるのだが、われらの経線儀は、正確であった。
 リシャンスキー島は、ひくい砂の島で、草も、小さな木も生えていて、海鳥、海がめ、魚がたくさんいた。島のぬしのような、何頭かのアザラシが、海岸にいたが、上陸したわれわれのすがたをみると、みんな海へにげてしまった。
 この島の名まえは、ロシア語であって、西暦一八〇五年に、ロシアの帆船がこの島を発見した記念に、その船の船長の名まえを、島の名としたのだ。
 この島を調査してから、さらに北西方の、ハワイ諸島のいちばんしまいの島、水の出る、ミッドウェー島に龍睡丸が向かったのは、五月十七日であった。
 このとき、龍睡丸につんでいたえものは、ふか千尾、正覚坊三百二十頭、タイマイ二百頭と、たくさんの海鳥であった。

 海鳥のなかでも、アホウドリは、いちばん大きな鳥である。肉は食用になるが、おいしいものではない。卵も食用になる。大きな尾羽は、西洋婦人帽のかざりになり、胸のやわらかい羽は、婦人コートの裏につけるのによい。そのほかの羽は、枕《まくら》やふとんにいれる材料として、輸出されるのである。
 アホウドリが、海から飛びたつときは、風さえあれば、風に向かって、大きなつばさを左右にはっただけで、なんのぞうさもなく、ふわりと空中にうかびあがる。しかし、風のないときは、ほかの海鳥とおなじように、羽ばたきをつづけたり、足で水をかいて、水面を走るようなかっこうをして、飛びたつのである。
 アホウドリは、陸上で、歩いたり、走ったりすることは、たいへんへたで、人が正面から向かって行くと、ただつばさをひろげただけで、どうすることもできない。その名のとおりの「アホウ」で、たちまち人にとらえられてしまう。それで、無人島にむらがっているこの鳥の大群も、上陸した船の人の太いぼうで、じきにうちとられてしまうのだ。
 ともかくも、龍睡丸は大漁である。もうこれで、目的とする島々の調査もすんだ。成績は優だ。ミッドウェー島で飲料水をつみこんだら、それから先は、まっすぐに大洋を走って、日本へ帰るのだ。
 龍睡丸のみんなは、勇みたってきた。

   パール・エンド・ハーミーズ礁《しょう》

 リシャンスキー島をあとに、ミッドウェー島に向けて出発したあくる日、すなわち、十八日の正午に、船の位置をはかってみると、予定の航路より、二十カイリも北の方に流されていることがわかった。このへんの潮は、北へ北へと流れている。その潮流が、思ったよりも強く、船がこんなに流されたのだ。
 ミッドウェー島に行くのには、パール・エンド・ハーミーズ礁という、いくつかの、小島と暗礁《あんしょう》のむれの、南の方を航海しなければならない。この暗礁にぶつかったら、たいへんなので、船がもっと北の方に流されても、パール・エンド・ハーミーズ礁の、いちばん南の方へ出っぱっている暗礁を十カイリはなれて通ることになるように、船の針路をきめた。
 龍睡丸《りゅうすいまる》は、ホノルルを出帆してから、ずっとふきつづいている北東貿易風を総帆にうけて、ここちよく帆走して行った。

 パール・エンド・ハーミーズ礁というのは、南北九カイリ半、東西十六カイリの、広い海面に散らばっている、いくつかのひくい珊瑚礁《さんごしょう》の小島と、暗礁の一群である。そして、この珊瑚礁には、昔から、たくさんの遭難談がつたわっている。そのなかの一つは――
 西暦一八二二年四月二十六日の晩に、英国の捕鯨帆船、パール号とハーミーズ号の二|隻《せき》が、おたがいに十カイリをへだてた小島に乗りあげて、船をこわしてしまった。その後、この二隻の難破船の乗組員たちは、一つ島に集まって、無人島生活をやった。そして、乗りあげてこわれた二隻の船の木材や板、釘《くぎ》をあつめて、みんなで力をあわせて、約三十トンの船をつくり、それに乗って、やっとハワイ島に着くことができた。その時から、この二隻の船の名、パール号、ハーミーズ号を、この一群の珊瑚礁の名として、パール・エンド・ハーミーズ礁というようになったのだ。
 この二隻の捕鯨船が、木船であったから、こわれた船の木材で、小船をつくることができたが、もし鉄の船であったら、船をつくって、ハワイに行くことはできなかったろう。それに、昔の帆船の乗組員は、みんなきような人たちであって、たいがいの人は、大工の仕事ができたのである。

 その、パール・エンド・ハーミーズ礁を、ぶじに通りすぎようと、龍睡丸は、よい風に帆をいっぱいにふくらませて、ミッドウェー島へと進んでいた。
 やがて日がくれて、十八日の午後十時になった。そうすると、今までふいていた北東風が、急にばったり凪《な》いで、風がまったくなくなってしまった。
 風で走る帆船が、無風となっては、どうすることもできない。こういう時は、錨を《いかり》入れて碇泊《ていはく》すれば、いちばん安全である。
 それで、錨を入れようと思って、海の深さをはからせると、とても深い。百二十|尋《ひろ》(二百十九メートル)の深さまではかれる測深線《そくしんせん》が、海のそこへとどかない。つまり、海はたいへん深くて、百二十尋以上もあるのだ。
 しかたなく、船を流しておくことにした。船は潮のまにまに、ぐんぐん流れて行く。
 そのうちに、波のうねりが高くなってきた。船は、ぐらんぐらんとゆれはじめた。まっくらやみの海は
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