経験がある。帰化人たちは、鯨とりの子孫だ。この人たちは、どうか大鯨に出あいますように、といいながら、銛の手入れをいつもしていた。
大西風
すっかり用意ができて、明治三十一年十二月二十八日、東京の大川口を出帆して、翌日、横須賀軍港に入港。海軍の水道から、いのちの水をもらって、大小の水タンクをいっぱいにしてから、いよいよ、元気に帆をまきあげて、太平洋へ乗りだした。
元旦《がんたん》の初日の出を、伊豆《いず》近海におがみ、青空に神々《こうごう》しくそびえる富士山を、見かえり見かえり、希望にもえる十六人をのせた龍睡丸《りゅうすいまる》は、追手《おいて》の風を帆にうけて、南へ南へと進んで行った。
一日一日と航海をつづけて、一月十七日には、目的の、新鳥島《しんとりしま》付近にきていた。
この日の朝は、濛気《もうき》が四方に立ちこめて、水平線ははっきり見えなかったが、海鳥は船のまわりを飛びかわし、その数は、だんだん多くなってきた。八時ごろになると、海水が、いままで、ききょう色の黒潮であったものが、急に緑白色にかわった。島が近くなったにちがいない。海の深さをはかってみると、十七|尋《ひろ》(三十一メートル)。海底は、珊瑚質《さんごしつ》であることがわかった。
「島」
見張当番が、大声でさけんで、右手を、力いっぱいのばして、指さしている。
うすい牛乳のような濛気を通して、うす墨でかいた、岩のようなものが、ちらっと見えたと思ったら、もう何も見えない。
私は、濛気が晴れるまで、錨《いかり》を入れて、碇泊《ていはく》する決心をし、小錨《しょうびょう》に太い索《つな》をつけて投げ入れた。
ところが、海底は珊瑚質の岩で、錨の爪《つめ》がすべって船はとまらない。錨をがりがり引きずって、船は潮に流される。そこで、小錨を引きあげて、この索にもう一つ、小錨より大きな中錨をつけて、二ついっしょに投げこむと、二つの錨は海底をよく掻《か》いて、船は止った。
「さあ。ふかつりだ」
船が碇泊すると、すぐにふかつりをはじめた。
すると突然、つよく西風が吹きだした。びゅうびゅうと、帆柱や索具《さくぐ》にふきつけて、海面には白波がたちさわぎ、船体は、大西風に強くふかれて、錨索《いかりづな》がぴいんと張りきると、
ぷつり。
ぶきみな音がして、太い錨索は切れてしまった。すぐに、左舷《さげん》の、太い鎖のついた大錨が投げこまれて船は止った。
そこですぐに、伝馬船《てんません》を、大風にさわぎだした海におろして、索の切れた錨の、引きあげ作業をはじめた。それは、錨には、大きな浮標《うき》のついた、丈夫な索がしばりつけてあって、錨索が切れても、この浮標の索を引っぱって、錨をあげられるようにしてあるのだ。
伝馬船の人たちは、錨をあげようと、一生けんめいに働くけれども、あがらない。二つの錨は、岩のわれめにでも、しっかりとはさまっているのであろう。大西風は、いよいよふきすさんでくる。波がだんだん大きくなって、伝馬船の人たちは、波をあびどおしで、作業をつづけるのはあぶなくなったので、錨の引きあげは、とうとう中止した。
しかし、ふかつりの方は成績がよく、三時間も錨作業をしているうちに、二メートルもある大ふか数十尾を甲板につみあげた。
大西風のふきつづくうちに、時はすぎて、午後四時ごろとなると、どうしたことか、急に、船が流れ出した。
錨の鎖をまきあげてみると、錨がない。鎖は、錨にちかいところから切れていた。なんという、錨に故障のある日であろう。七時間に、小、中、大、三個の錨をなくしてしまったのである。
こうなってはしかたがない。帆をまきあげて、避難の帆走をはじめた。大風にくるいだした大波は、船をめちゃめちゃにゆり動かし、翌、十八日の夜明けごろには、前方の帆柱《ほばしら》の、太い支索《しさく》がゆるんでしまった。しかし、仮修繕はできた。
大西風は、いよいよ猛烈にふきつづいて、その日の夜中に、前方の帆柱は、上の方が折れてしまった。そして、甲板の下では、飲料水タンクの大きいのがこわれて、水がすっかり流れ出して、小さなタンク一つの水が、十六人の、生命の泉となってしまったのである。
総員は、ふきすさぶ大風と、大波にもまれながら、夜どおし、帆柱の仮修繕に働いて、夜明けに修繕はできあがったが、今はもう、追手に風をうけて走るより方法がない、そこで、東北東に向かって船を走らせた。
大西風は、一週間もふきつづいて、二十四日正午には、新鳥島から、数百カイリも東の方、くわしくいえば、東経百七十度のあたりまで、ふき流されてしまった。
もう、海賊《かいぞく》島の探検《たんけん》どころではない。日本へ帰ろうとすれば、この大西風にさからって、千カイリ以上も、大風と大波とをあいてに、折れた帆柱、ゆるんだ索具の小帆船が、戦わなければならない。遠いけれども、追手の風で、ハワイ諸島のホノルル港に避難して、修繕を完全にして、じゅうぶんの航海準備をととのえて、日本へ帰るのが、いちばんたしかな方法だ。急がばまわれとは、このことだ。
また、ホノルルに向かえば、途中は島づたいに行ける。まんいち、食糧がなくなっても、魚をつってたべ、島にあがって清水《せいすい》もくめよう。いよいよ水がなくなったら、この島々にたくさんいる、海がめの水を飲もう。海がめは、腹のなかに、一リットルから二リットルぐらいの、清水を持っているのだ。
この島々の付近には、北東|貿易風《ぼうえきふう》(一年中、きまって北東からふいている風)がふいている。もし、大西風がやんで、反対に北東貿易風がふきだしても、この風になら、さからって船を進めることができる。こう決心して、ホノルルに針路を向けた。
しかし、できるだけ早く飲料水《いんりょうすい》がほしいので、いちばん近い島、すなわち、ハワイ諸島のミッドウェー島に行こうとした。
ミッドウェー島は、ホノルル港から、約千カイリ、ハワイ諸島の西端の島で、島は、海面から、約十二メートルの高さであるが、すこしほれば清水《しみず》がわきでるから、この島で、まず飲料水をつみこむことを考えた。だが、大西風が強すぎて、とても行けない。しかたがないからあきらめて、ホノルルに向かった。
それから毎日、龍睡丸は走りつづけて、十一日めの二月四日に、はじめてハワイ諸島の島を見てからは、三、四日めごとには島を見て、島づたいに進んだ。
なによりも飲料水がほしいので、島の近くにくると漁船をおろして、水をさがしにでかけたが、波が荒くて、島に上陸ができず、また、上陸のできた島には、水がなかった。
しかし、これらの無人島では、大きな海がめ、背の甲が一メートルぐらいの正覚坊《しょうがくぼう》(アオウミガメ)が手あたりしだいにとらえられ、おまけにその肉は、牛肉よりもおいしく、また、どの島のちかくでも、二メートル以上のふかが、いくらでもつれた。
こうして、はてもない空と水ばかりを見て、帆走《はんそう》をつづけ、二月もすぎて、三月十五日となった。この日の午後二時、西北の水平線に、一筋たちのぼる黒煙をみとめた。
汽船だ。
万国信号旗を用意して、汽船の近づくのをまっていた。それには、わけがあるのだ。
機械の力で走る汽船は、風や海流にかまわず、目的の方向に一直線に走れる。速力もわかっている。それだから、自分の船のいるところは、大洋のまん中でも、どこかわかっている。しかし帆船では、風を働かせて船を進めるのだから、風のふく方向や、風の強さ、それから海流などに、じゃまをされて、汽船のようには進めない。
それで、大海原《おおうなばら》で、帆船が汽船に出あうと、
「ここはどこですか」
と聞くのだ。これは、世界の海の人のならわしである。
水平線の一筋の煙は、太く濃くなって、やがて、帆柱、煙突、船体が、だんだんに水平線からうきだしてきて、近くなった。私たちは、大きな日の丸の旗を、船尾にあげた。船は小さくとも、日本の船だ。十六人の乗組員は、日本国民を代表しているのだ。むこうの汽船では、アメリカの旗をあげた。
午後三時四十分、両船の距離は八百メートルとなった。本船は、帆柱に万国信号旗をあげて、汽船に信号した。
「汝《なんじ》の経緯を示せ」
汽船は、わが信号に応《こた》えて、多くの信号旗をあげた。その信号旗の意味をつづると、
「西経百六十五度、北緯二十五度」
これで、本船のたしかな位置がわかった。
「汝に謝す」
お礼の信号をすると、
「愉快なる航海を祈る」
汽船はこの信号をあげつつ、ゆうゆう帆走する本船をおきざりにして、どんどん遠ざかり、やがて、水平線のあなたに、すがたをかくしてしまった。
こうなると、汽船と帆船とは、うさぎとかめの競走である。かめの本船は、ここで、針路をまっすぐにホノルルに向けた。
二十二日の朝、ホノルル沖についた。信号旗をあげて、港の水先案内人をよび、曳船《ひきぶね》にひかれて、龍睡丸は港内にはいって、碇泊した。
私は上陸して、ホノルル日本領事館にいって、領事に、海難報告書を出して、避難のため、この港へ入港したわけを説明して、べつに英文の海難報告書を、領事の手をへて、ホノルルの役所へとどけてもらった。
世界の海員のお手本
こうして龍睡丸《りゅうすいまる》は、ぶじに避難ができた。しかし、こまったことになった。船の大修繕をしなければならない。錨《いかり》を買い、糧食をつみこまなくてはならない。それだのに、龍睡丸には、準備金がないのだ。
まさか、こんな外国の港で、大修繕をしたり、糧食を買い入れようとは、夢にも思わなかった。もともと、龍睡丸の持主の報効義金《ほうこうぎかい》は、貧乏な団体であるため、冬の間、南の海で、ふかや海がめ、海鳥をうんととらえて、できればまっこう鯨もとって、利益をえようというのが、この航海の目的であったのだ。
ついに私は、ホノルルの在留日本人に、一文なしでこまっているのだと、うちあけて相談すると、
「御同情します。われらも日本人だ、なんとかしましょう」
と、ありがたいことばである。そして、日本字新聞は、「龍睡丸|義捐金《ぎえんきん》募集」をしてくれたが、このとき、ホノルルの外国人のあいだには、へんなうわさがひろがった。
「あの船を見ろ。日本の小さな帆船のくせに、あんな大きな日の丸の旗をあげたりして、なまいきなやつらだ。避難の入港だなぞといっているが、ホノルルへ入港するまえに、沿岸定期の小蒸気船を、追いこしたというではないか。大しけにあったなんて、税金のがれのうそつきだよ」
ホノルルには、各国人がいて、こんなうわさをした。
そしてやがて、港の役所から、
「至急、船長自身出頭せらるべし」
という書面が、港に碇泊《ていはく》している龍睡丸に、とどいた。
私が上陸して、役所に出かけて行くと、案内されたのは、大きなりっぱな部屋であった。正面に、太平洋の、大きな海図がかけてあって、その前の大テーブルに向かって、三人のアメリカ人の役人が、椅子《いす》に腰かけて、がんばっていた。
私が、ずかずかと室にはいって行くと、役人は立ちあがって、握手をして、一とおりのあいさつがすむと、
「船長。さあ、おかけなさい」
と、一つの椅子をすすめた。私は、それに腰かけて、三人の役人と、大テーブルをはさんで向かいあった。その大テーブルの上には、海図がひろげてあった。
すぐに、役人の一人が、
「船長。あなたは、避難のため、ホノルルに入港したと、とどけ出ましたね」
と、静かに、しかしきびしく、いいだした。そして、私の返事も待たず、テーブルの上の海図を指さして、
「しかし、この海図をどらんなさい。あなたの船は、ここで錨《いかり》を失い、大西風のため、帆柱が折れ、水タンクもやぶれて、ここまで流されたと、報告されているが、このへんから、海流は、北東から流れているし、北東貿易風もふいているはずだ。ぎゃくの海流と、風とを乗りきって、二千カイリにちかい航海のできる小帆船が、遭難《そうな
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