えの用意か」
 だれかがいった。すると小笠原は、
「はっはっ、つえじゃないよ。おわんだってそうだ。こんなものとみんな思うだろう。だが、つまらないと思うものが、いざとなると、ほんとに役に立つのだ。それが、世の中だ。わかい者にゃ、わからないよ。潮水の修業が、まだたりないよ」
 と、いつもの調子でいってから、いねむりをはじめた。
 どのくらいの時間がたったろう。時計がないので、はっきりしないが、ずいぶん長い間、漕ぎつづけた。が、島は、いっこうに見えない。ところが、じっさいは、二時間たらずの時間なのだから、そんなに遠くに来たわけではない。夜中からのさわぎで、頭がつかれているのだ。
 櫓を漕ぐ者も、櫂を使う者も、のどがかわいて、いつもの元気がない。しかし、伝馬船には、一てきの飲み水もない。龍睡丸が、どかんと岸にあたると同時に、清水《せいすい》タンクは、こわれてしまったのだ。
「もう見えそうなものだ」
 漁夫の一人がつぶやくと、小笠原が、
「島は、どっかにあるよ。心配するなよ」
 と、はげます。
 しばらくすると、帰化人の範多《はんた》が、
「島のない方へ行くのじゃないかな。とちゅうで腹がへってはたいへんだ、もうひきかえした方がいい」
 と、心配そうにいう。しかしだれもあいてにしない。
 多くの者は、さすがに海の勇士だ。ずぶぬれの服で、伝馬船にすしづめになって、身動きもできず、うずくまりながら、うつらうつら、いねむりをしていた。
 みんな、ずぶぬれは平気だ。航海中に、船の甲板で任務についていると、大雨の時は、びしょぬれ。大しけには、たえず波をかぶって、ぬれどおし。いくら雨合羽《あまがっぱ》をきていても、だめだ。着かえていたら、きりがない。また、何枚も着がえを持っていない。任務を交代して、水夫部屋へさがってもぬれたままねるのだ。
 私は、はげますようにいった。
「もっと、精を出して、交代して漕げ。手のあいている者は、今のうちにいねむりをして、休んでおけ。島につけば、うんといそがしくなるから」
 交代した漕ぎ手は、小声で、
「やんさ、ほうさ、ほらええ、ようさ……」
 かけ声に合わせ、調子をとって、櫓、櫂を漕いだ。このかけ声が、いねむり連中には、なつかしい子守歌のように、ここちよいのである。
 へさきに立って、小手をかざして前方を見ていた運転士が、目ざとく、水平線に一ヵ所、かすかにた
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