」
と聞いたら、
「あれは無人島《ぶにんとう》です」
といったのを、ブニンを、ボニンと聞きちがえて、とうとうボーニン島になったのだそうだ。
さて、おいらが四歳の年の一月に、アメリカのサンフランシスコのいなかで、砂金がざくざく出るのを発見した者があった。そして、アメリカやヨーロッパのよくばり連中が、シャベルをかついで、さびしいいなかの港、サンフランシスコに、わんさわんさと出かけて行っては、砂金をほった。
砂金がほしいよくばり病は、捕鯨船の乗組員に、すぐ伝染した。アメリカの、太平洋の港に碇泊《ていはく》中の、捕鯨船の水夫、漁夫、運転士までが、
「鯨よりも、砂金の方がいい」
といっては、手荷物をかついで、船をおりたり、また、にげ出して行った。それで、何隻もの捕鯨船が、港に錨《いかり》を入れたまま、動けなくなってしまった。それから急に、アメリカの捕鯨船は、だめになった。
だが、おいらの父親は、生まれつきの鯨とりだった。砂金なんか、見むきもしなかった。気もちのいい小笠原がすきだった。
さて、おいらの願いがかなって、父親の船に乗せてもらって、太平洋へ鯨をとりに出かけたのは十一歳の春(安政二年)だった。うれしかったね。なんでも、早く一人まえになって、一番|銛《もり》をうってやろうと、思ったね。
はじめは、帆柱の上にある、ほんとうの見張所の下に、樽《たる》をしばりつけてもらって、その樽の中にはいって、見はり見習いをやった。上の方の大人の見はりに負けずに、すばやく、鯨のふきあげる息を見つけては、歌をうたう調子で、声を長く引いて、鯨が息をするように、
「ブロース――ホー」
と、力いっぱい、どなったものだ。
あの鯨のいぶき、ふつう潮吹というが、あれを「ブロー」というのだ。そして、うでをのばして、見えた方角を指さすのだ。すると、下では、甲板から帆柱を見あげて、
「鯨はなんだ」
と聞くのだ。息のふきかたで、鯨の種類がはっきりわかるのだ。
「まっこう」
とか、
「ながす」
とか、すぐにいわないと、ひどくしかりとばされるし、まちがったりすると、どえらくおこられたものだ。そのおこって、どなるもんくが、
「このお砂糖め」
というのだ。ところが、いわれる方では、それこそ、雷が頭の上に落ちたように、うんとこたえるのだ。
それは、こうなんだ。海の男として、りっぱな一人まえにな
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