無人島に、ふさわしいものであった。やっぱり、海の体験談が多かった。
小笠原《おがさわら》老人は、よく話をした。かれは、海の上に、四十四年間もくらしている。そして、十六人の中で、いちばんの年長者で、また、いちばん長い年月を海でくらしたのだ。帆船で鯨を追って、太平洋のすみからすみまで航海した。じぶんで、
「おいらは、太平洋のぬしだ」
と、じょうだんをいうくらいだ。話がすきで、身ぶり手まねをまぜて、話しかたも、日本語もうまかった。
小笠原老人は、第一回の茶話会に、こんな話をした。
みんなが、おいらのことを、老人というが、まだ、たった五十五歳だ。このもじゃもじゃひげとふとったからだが、老人に見えるのだろう。
おいらのおじいさんは、アメリカ捕鯨の本元、大西洋沿岸、北方の小島、ナンテカット島の生まれで、おじいさんも、父親も、おいらも、代々鯨とりだ。おじいさんは、カーリー鯨アンド・アンニー号という百十五トンの捕鯨帆船を持っていて、その船長だった。
おじいさんが、青年時代、一八二〇年(江戸時代の文政三年)に、太平洋の日本沿岸、金華山沖で、捕鯨船が、まっこう鯨の大群を発見したのだ。
それはね、何千頭という大鯨が、べたいちめんに、いぶきをしていたというのだ。このことのあったつぎの年から、そのころ世界一さかんであった、アメリカ中の捕鯨船が、金華山沖にあつまって、めちゃくちゃに鯨をとった。なんでもしまいには、各国の、大小七百何|隻《せき》の捕鯨帆船が、金華山沖に集まったというのだから、太平洋の鯨もたまらない。
一八二三年に、そのアメリカ捕鯨船が、小笠原の母島を発見した。小笠原島には、いい港がある。年中寒さしらずで、きれいな飲料水がわき出ている。木がおいしげっていて、いくらでもたきぎがとれる。そのうえ、鯨も島の近くに多い。そして、そのころは無人島だったから、上陸した乗組員は、天幕《テント》をはって休養したが、のちにはりっぱな家をたてて、幾人もの鯨とりが住まうようになった。
おいらの父親も、小笠原に家をもったのだ。そして、おいらは、一八四五年(弘化《こうか》二年)に、この島で生まれて、フロリスト・ウィリアム、と名まえをつけられた。
そのじぶん、捕鯨船では、小笠原島のことを、ボーニン島といっていた。なんでも話にきくと、日本のお役人に、
「あの島の名まえは、何というのですか
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