冬を迎へようとして
水野仙子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)今日《けふ》は
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)電車|通《どほ》り
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)二人《ふたり》[#ルビの「ふたり」は底本では「わたし」]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)たび/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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――(櫻田本郷町のHさんへ)――
今日《けふ》はほんとうにお珍《めづら》しいおいでゝ、お歸《かへ》りになつてから「お前《まへ》は今日よつぽどどうかしてゐたね。」といはれましたほど、私《わたし》の調子《てうし》が狂《くる》ひました。ほんとうにあなたはめつたにお出《で》ましにならないので、私どものやうに引越《ひつこ》してばかりゐますと、ついあなたが御存《ごぞん》じない家《いへ》も出來《でき》てまゐります、今日はほんとうに嬉《うれ》しうございました。
けれど、これといつて何《なに》一《ひと》つ取りとめたお話《はなし》もいたしませんでしたのねえ、狹《せま》い私の家中《うちぢう》を驅《か》け廻《まは》つてゐるまあちやんとせつちやんの遊《あそ》びは、二人《ふたり》[#ルビの「ふたり」は底本では「わたし」]のやりかけた話をたび/\さらつて行《ゆ》きました、私はたゞ、あなたが(このあなたが[#「あなたが」に傍点]は、とても字《じ》では表《あら》はせないけれど、語氣《ごき》を強《つよ》めて言《い》つているのですよ)兎角《とかく》まあちやんの聲《こゑ》に母親《はゝおや》らしい注意《ちうい》をひかれがちなのを、不思議《ふしぎ》さうに珍らしさうに眺《なが》めてゐました。ほんとにまあちやんの大《おほ》きくおなんなさいましたこと、今更《いまさら》らしく思《おも》つてみれば、あなたもK子《こ》さんも立派《りつぱ》な母親なんですわね。K[#底本では「K」が欠落]子さんとこのせつちやんたら、この頃《ごろ》では私の家《いへ》へひとりで遊びになど來《く》るやうになりました。門《もん》の戸《と》が開《あ》いたと思ふと小《ちひ》さな足音《あしおと》がして、いきなりお縁側《えんがは》のところで「さいなら!」などゝ言つてゐます。
あなた方《がた》はほんとうに、愛《あい》すまいとしても愛せずには居《ゐ》られないやうなものを持《も》つていらつしやいます。深《ふか》く、強く、眞摯《しんし》にものを愛することが出來るといふのは、なんといふまあ仕合《しあは》せなことでせう! それだのにあなた方は、いつも自分《じぶん》一人《ひとり》が子持《こも》ちになどなつて割《わり》がわるいのだといふやうな顏《かほ》をしていらつしやるほんたうに罰《ばち》があたりますよ。だけど、子供《こども》なんか要《い》らないなどゝ仰言《おつしや》るのは、要《えう》するに空虚《くうきよ》な言葉《ことば》にちがひありません。何故《なぜ》といつて、今《いま》まあ假《かり》にある禍《わざは》ひが來て、あなたのその要らない子供を奪《うば》つて行《い》くとしませう、その時《とき》あなたは必《きつ》と、身《み》も世《よ》もあげてそのお子さんを救《すく》はうとなさるにちがひありませんもの。心《しん》の心は、要らないどころか、大事《だいじ》で大事でならないものを、煩《うるさ》いなどゝあんまり世間並《せけんな》みなことを仰言るな、あなたの惠《めぐ》まれた母の愛を、猶《なほ》この上《うへ》とも眞面目《まじめ》にお大切《たいせつ》になさいまし。
あなたにお別《わか》れしてからの電車《でんしや》の中《なか》で、私は今夜《こんや》はじめて乘越《のりこ》しといふ失敗《しつぱい》をしました。晝《ひる》のうち復習《ふくしふ》が出來なかつたものだから、せめて電車の中でゝもと思つて、動詞《どうし》の語尾《ごび》の變化《へんくわ》に夢中《むちう》になつてゐるうちに、いつか水道橋《すゐだうばし》は過《す》ぎてしまひ、ふと氣《き》がついてみると、もうお茶《ちや》の水《みず》まで來てゐるのです。あまりの間拔《まぬ》けさに自分で自分にきまりわるく、すぐ引返《ひつかへ》さうかと思つたけれど、どうせもう後《おく》れたのだから、いつそ文法《ぶんぽふ》の時間《じかん》をすましてからにしようと、そのままぶら/\と電車|通《どほ》りへ歩《ある》き出《だ》しました。
駿河臺《するがだい》の少《すこ》しものさびれたところに、活動《くわつどう》の廣告《くわうこく》の赤《あか》い行燈《あんどん》が、ぽつかりとついてゐたのが妙《めう》に頭《あたま》に殘《のこ》りました[#「ました」は底本では「しまた」]。なんだかそれが
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