山の中腹に立つてゐる岩は、青い望樓にのぼつた人間のやうに、さぞちつぽけにみえるだらうと思ふ私を見送つてゐます。また前を見れば山から山にかさなり續いて、その狹間の緑の下から、私の前には一旦隱れてゐる道のつゞきが細く細く、一筋の糸のやうに見えてゐます。前を見ても後を見ても、また横を見ても、この時私の外には、たつた一人の人の影も見る事が出來ませんでした。朝の氣の漲つたぐるりは清淨で、そしてしいんとしてゐました。
ふと氣がついてみると、こまやかな霧の中を縫つて來たために、私の着物の袖はしつとりと霑つてゐました。さうしてどうしたといふのでせう、その時私は別にこれぞといふ心を覺えることなしに、いつか自分が涙ぐんでゐるのを知りました。そしてそれを知つたはづみに、はらはらとつめたく涙が頬につたはるのを覺えました。
二
それは何といふ靜な心の境だつたでせう。そのしづかさに波だたせるやうな身じろぎも恐しく、寸分も今歩いてゐる體の位置を易へまいとするやうに、つめたいものゝつたはる頬をそのまゝにして、私はやつぱりとぼとぼと歩きつゞけてゐるのでした。
私は今その心持に、殊更な意義をつけ
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