した。
『およし、わたしは寒いんだから!』
 私はかう呟きながら川風に逆ひつつ橋を渡つて、それから左の方の道へと足を向けました。左へ、私はこれまでついぞ一度もこの左へは足踏をしてみませんでした。それはますますこの地を奧深く導くところのそれで、小高い宿の廊下に立つて見ると、ちようど地の帶のやうに樹立の下に敷かれてみえるのでした。磐梯の麓をめぐつて行く汽車もそちらへ、さうしてその殘して行く煙の末を見まもりながら、こゝに寄つた郵便屋がまた更に、その左の方の道を辿つて行くのを見る度に、一山越えた里の人家を、そゞろになつかしく思ひやるのでしたけれど、私はやつぱり曾て自分が來た方の道へ、誰か自分を訪ねて來る人に、途中でめぐり合ふことでもあるやうな當もないあこがれをもつて、やつぱりつい右の方の道へと歩いて行くのが常なのでした。
 二つの流もまた右へと走つてゐました。私はその水音に逆ひながら、洗はれたやうに小砂利の現れてゐるでこぼこした道を、きりぎりすの鳴く音を聞き流しつゝ、とぼとぼと辿つて行きました。水際の叢にはまつ白な山百合の花が、くつきりとした襟元をみせてうなだれてゐました。ふりかへつてみると、
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