の肌が氣持わるく汗ばんでゐるとは思へないやうでしたもの。暑さ、寒さ、痛さ、痒さにこらへ性のない私は、一面にあなたのさうした枯れたやうな所を好いた癖に、またよくその穩さに意地を燒きました。そして一寸お芝居めいた事のすきな私の計畫は、いつもあなたの興味のない顏色で、忽に崩されてしまふのが常でした。
 たとへば、私は急にあなたに手紙が書いて見たくなつて、(かうして長い間別れてゐる今にして思へば、あゝそんな時もあつたのだつけと思はれますね。)早速その計畫に取りかゝります、といつて書かなければならぬ程の内容を私は別に持つてゐるわけでもないのです。
『今日はほんとによく晴れたお天氣ですこと、あの厭なぎいぎいいふ井戸車の音も、何となく今日はのどかに聞えるではありませんか。あゝ私達の家は今靜に平和です。あなたはこの半日を書齋でおすきな讀書に費し、私は茶の間でお裁縫をしてゐます、ほんとにほんとに落ち着いた靜ないい氣持よ。それではさよなら。』
 私は筆を擱く、それから一寸考へて、『御返事を下さい。』と小さくをはりの方に書き添へる。それを封筒に入れて、すつかり表書をして、女中部屋で居睡をしてゐるふくやを呼んで、これを旦那樣の所に持つて行くやうにと手渡します。
『あの、おうちの旦那樣のところへでございますか?』と、ふくやは不思議さうに私の顏と手紙とを見くらべる。
『あゝ、さうよ。』
 やがてふくやは書齋の方にその足音をたてる、戸が開けられる、併しあなたはまだ振り向かない。
『奧樣から……』といつて、ふくやは一封のかはいらしい手紙を、あなたの机の端の方に置く。その時あなたは初めて目を書物の上から離します、さうして微笑が徐にあなたのしづかな顏にのぼつて來る……
 かうした順序を想像しながら、私は樂しさに滿ちて、一しほ針のはこびをいそしみながら待つてゐます。五分、十分……耳をすましても、併しあなたはまだ返事を託すために、私が豫期した如く、ふくやを呼ばうともなさらない。一時して、私はまたふくやを手許に呼んで見ます。[#「呼んで見ます。」は底本では「呼んで見ます、」]
『今の手紙を旦那樣にあげたのかい?』
『はい、お手渡して來ました。』
 何をくだらないといつたやうな顏をふくやはしてゐます。
 それから私はたうとう立ち上つて、そつとあなたの書齋を覘きにまゐります。さうしてすうと障子を開けた時に、極めて何事もなかつたやうに、泰然と片手を火鉢の上にかざし、片手を膝の上に置いて机に向つてゐるあなたの姿が、一瞬の間に私の空想を吹き拂つてしまひます。さうして隱れん坊をして、たつた一人置いてきぼりにされたやうな、寂しい遣瀬ない心をもつて、もはや自分自身にも紙屑のやうに見えるその手紙の上に、冷い私の瞳をそゝいで立ち盡すのでした。

        五

 けれども、そんな事は私達の初期の間でした。私はだんだん私の「あそび」をあなたの上には試みなくなつて來ました。あなたのいつも生眞面目でありたい要求――といふよりは、さうあらなければならぬあなたの生れつきをそつとして置くやうになつて來ました。あなたの心を私の心と共に躍らせようとするのは、鎌倉の大佛さんを搖り動さうとするのに同じだと、私はひそかに思ひました。それでも時々は我を忘れて、『早く、鬼が來たから逃げなさいよ!』と、大佛さんの肩を叩くやうな事をよくやりましたけれど。
 私達は大抵離ればなれな心で過しました。あなたとしてはまた私のしんみりしない心持を、常に寂しく思つて居られるのを私は知つてゐました。けれども、あなたが敢て私の性質に近寄らうとしなかつたやうに、或は企てゝも出來なかつたやうに、私も亦あなたの心に添ふやうに、自分を馴さうとはしませんでしたし、また不可能な事に思つてゐました。私は相變らず快活でした、併し、それはもはや内に向いてゞはなく、外に向いてゞした。私は向日葵のやうに無意識に無意識に、自分の心を惹くものゝ方へとその首をむけてゐるのでした。
 Aはその時分最も近く私達の側を歩いてゐました。あの人はあなたも御承知の通り、私の從姉に當る女の再縁した先の先妻の一人子でした。Aと私との間にさうした縁戚關係の生じたのは、私の十六の時で、たしか二つ違ですから、あの人が十八の時でした。併し私達はそれから四五年の間、一度も會つた事もなければ、そんな人がをるといふ事すらも忘れて過してゐました、Aの一家はその時分仙臺の方に暮してゐたのです。
 あなたと私とが相逢ふやうになつてから、一年ばかり後れてのある夏、私は突然一人の知らぬ青年の訪問をうけました。それがAだつたのです、ちようど病後だとはいつてましたが、青白い顏をして、鋭い眼の上の濃い眉毛が何となく陰鬱に見えました。繪をやるために上京したといつてましたが、あとで從姉からの手紙を見ると
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