、どうも家庭が面白くいかないらしいのでした。どちらかといへば、その從姉をあまり好でなかつた私は、却つてAの方に同情を寄せる位でしたけれど、それだといつて會つて見ればのことで、別にどうといふ考もなく、たゞあの人の話が出れば、すぐにあの事を思ひ出して、そして微笑するだけの事でした。それは、Aが初めて私の家に來た時の容子で、小倉の袴の腰に手拭を棒しごきに下げてゐましたが、その手拭がひどく汚れてゐて、玄關に上る時にそれを引き拔いてはつたはつたと足の埃を拂つたのでした。その時の實直な態度を思ひ出すと、私は今でもやはり微笑まずにゐられません。
 それから私達の白熱的でない戀の成行が、大層な廻り道をした揚句、やつぱりあなたと私とは結婚することになりました。その時にAは私達の前途を祝福するといふやうな、感傷的な手紙を私にくれましたが、私はその當時何も彼も、結婚生活の一大混惑――樂しいといつていゝのか、苦しいといつていゝかわからない――の中にすべてを忘れ去つてゐました。

        六

 Aが私達の家庭に親しく出入するやうになつたのは、それから半年ばかり後の事で、ある小さな新しい團體の展覽會に[#「展覽會に」は底本では「展覺會に」]彼が出品してる事を、ある新聞の消息で知つて、急に思ひ出して私が手紙を書いたからでした。
 私はあの人をあなたに紹介するのに何の憚も持ちませんでした。彼は見違へる程元氣になつて、あなたがいつも初對面の人に對して殊にさうであるとほり不機嫌に(あなたは自分では決して機嫌を惡くしてるつもりではないと仰しやるけれど、傍からはさう見えるのです。)默りこくつてゐるに反し、よく話したり笑つたりしました。私もまた引き入れられて、笑つたりおしやべりしたりする事によつて、久しく欝結してたものが去つたやうな、ある快さを覺えたのでした。
 それから私はだんだんAの訪問をうけるのを喜ぶやうになつて來ました。格別勤めるといふ事もなく、またこれぞといつて學校にも通つてなかつた彼は、いつも思ひ出したやうにぶらりとやつて來るのが常でした。私はそれをよくあなたがおかへりになるまで引き留めて、お夕飯を一所に頂かうと言ひ張りました。私は、自分に面白い事は、あなたにもまた面白くなければ[#「なければ」は底本では「なけれは」]ならぬ筈と、不用意にいきなり思ひ込んでしまふのが癖でしたから。
 けれどもこの事は、はじめあなたをあまり喜ばせないやうでした。それはあの人を嫌ふといふよりも、あなたはその賑な談笑に、私同樣な愉快を感ずる事ができなかつたからで、あなたの無意識な要求は、自分が默つてゐたい時にはやつぱり私をもおし默らせて置きたいのでした。それにも拘らず、私はあなたが默つてしまへばしまふ程、その場を糊塗する心から、或はあなたのさうした思をAの前に隱さうとする心から、(私にはなぜかあなたのさういふ氣質をあの人に知られるのがしいやうな[#「知られるのがしいやうな」はママ]氣がしたのです。)微細な心づかひをあなたの上に取られつゝも、ますます賑にはしやぎ出すのでした、さうして鋭敏なAの神經がそれを感じ、いたむやうに私を見るのを知る時、私は恥しさと、寂しさと、腹だたしさのまぜかへしたやうな心を覺え、自分にももはや苦痛であるところの快活さを裝はうとするのでした。
 けれどもAは辭して行く。さうしてあなたは、やつと私が自分のものになつたやうなやすらかさを感じ、しづかに優しく私を御覽になる。けれども私はやつぱり寂しかつたのです、私は疲れ、さうして僅に悲しみ、あなたを劬り、慕ひ、またわつかほど厭ひ、何をどこに求めていゝかわからぬやうな心をもつて、寂しく無言にあなたの首を抱くのでした。
 日向を求めてあらぬ方に向いては咲いても、根を張つた土のしめりを、向日葵とても決して忘れることはできないでせう――やつぱり私も、あなたを餘所にして全き自分があり得ようとも思へないのを、今更にしみじみと考へ耽つてゐます。
 あ、今うしろの山に郭公が啼いてゐる……

        七

 八月末の某日朝。枕に響く谿流の音は、今朝もまた、せめてもに暖く穩な眠から、温泉宿の一間の寂しい女主人の身に私をかへさせてしまひました。昨日も、今日も、明日も、明後日も、恐らくはまたその先の日に於ても、目覺めさへすれば私はこの書きかけた手紙の先を急いで、をはりの數行を言ひたいためにばかり、過ぎし日の醜い姿を寫し出して行かなければなりません。――
『沼尾君は何か僕に不快を抱いてるんではないだらうか――たとへば僕がいつも、沼尾君の留守に來て、上り込んで話してゐるといふやうな事がですね。』
 Aは時々思ひ出したやうに、こんな事を言ひ出しました。
『そんな事はないわ。』と、さういふ時、私はきまつて慌ててかう打ち消すのです
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