『あの人はそんな人ぢやないわ。(といふのは、そんなに狹量ではないといふ意味で、その事は私の理想だつたのです。)たゞ人附合がほんとに下手なんですね、自分でもこれぢやいけないと氣を揉むんだけども、何か話したり笑つたりしようと思ふんだけれど、それがさうできないのがあの人の性分なんですよ。』
 この一所懸命な説明に滿足できなくて、私はなほ言葉を次ぐ。
『そらほんとに惡氣なんてちつともない人なんですからね……』
 けれども私はやつぱり言ひ足りなさを覺えて考へ込みます。私はあなたをどうにかしてあの人によく思はれたい、あの人の前にあなたを完全な者にしたい、けれどもそれと同時にまた、この私のどこか寂しいもの足りなさを知つて貰ひたいといふやうな、矛盾した二つの感情の爲に、結局私は口を緘んでしまふのでした。
『お前はほんとに人さへ來てると機嫌がいゝけれど、僕とたつた二人きりの時は、なんだか寂しいやうな、つまらないやうな顏ばかりしてゐるねえ――まるで別人のやうに。』と、いくらか責めるやうに私を御覽になつたあなたの目を私はふと思ひ出します。
 異なる寂しさともの足りなさ……否、同じたぐひの寂しさともの足りなさを、異なる場合にあなたもまた私同樣に感じられてゐらつしやるのでした。私が逐ふ時にそれは無く、あなたが求める時にそれはもう逃げてゐる。
『なぜ二人は同じ時、同じやうにぴつたり、面を向き合せることができないのだらう?』
 私は惱しく唇を噛みます。
『沼尾君はあなたを愛してゐますか?』
 突然Aは彈丸のやうな質問を私に向ける。私は急所を突かれ、そのをのゝきを隱すために目を伏せながらも、間違なく侮辱を感じ、全く機嫌を惡くして、
『えゝ、愛してゐます!』と答へるのだけれど、意地わるく言葉は縺れて、『えゝ、愛してゐるだらうと思ひますわ!』と言つてしまふ。
 けれども、それは言葉が間違つただけのことで、言葉が私の心を裏切つたわけではないのでした。私はぱつと立ち上つて言ひます。
『Aさん、あなたこの頃どんな繪を描いてらつしやるの?』

        八

 ある時、通り魔が私達の道を横ぎつて行つたのです。それは結婚後二年目の年で、それから間もなくあなたはたうとう患ひついてしまつたのでした。私は再びあのどしんと頭を打たれたやうな當時の寒い心を思ひ出したくありません。刺戟や苦惱やになれて來た今にして思へば、その當時の事は、たゞ一寸深き注意を要したに過ぎぬ位の事であつたかも知れないけれど、これといつて一生の根を張るものにめぐり合はず、離れつ即きつしつゝ漂つてゐる浮草のやうな生活の上にあつた私達には、ほんとに恐しいその二年間でした。
 唯一の生計の道であつた語學教師の職を擲つて、落人のやうに私達は茅ヶ崎へ越して行きました。あなたの病氣は、それほど進んでゐるのではなかつたのでしたが、それでもあなたはすつかり滅入り込んでゐらつしやいました。私達はお互にめいめいな事を考へるのに無言で、お縁側には徒に暖な冬の日がさしてゐる事などがよくありました。
 まあ私だけについていへば、生も死も共にといふまでに結び合つてゐない愛の隙間から――體それは[#「體それは」はママ]誰の罪であつたのでせう? 當時にあつては、あなたも私も決して愛し合ふ可く自分を制しはしなかつたつもりなのだけれども。それでは求めるものは與へらるべく、與へらるゝために私達は切にそれを求めなければならなかつたのでせうか? ――私はひそかに自分の心を滿すものを搜し求めました。
『繪でもやらうかしら?』
 さう心に呟いて、私は試に鉛筆を執り、默祷してるやうに默つて動かぬあなたの横顏を描きにかかります。
『あら、動いちや厭よ。※[#判読不可、184−2] まあ、髮の毛が大變のびましたわねえ。』
 さうして今更にあなたの頬のやつれに心が痛む。
『どれお見せ。』と、あなたは手をのばす。
『だめ、ちつとも似ないわ。』
『一寸うまいぢやないか、だが隨分陰欝な顏をしてると見えるねえ、僕は輪廓だけでもそれが見えるぢやないか。』
 何事もすべてはそこに歸して行く。
『髮がのびたから、餘計やつれて見えるのですよ。今度あなた、暖な日にお刈になるといゝわ、床屋を呼んで來ませうか?』
 私はあなたの長く延びた髮の毛に手を突き込んで、指の先でそれをいぢくりながら、急に胸がせくりあげて來るのを覺えて唇を噛むのでした。
『なぜ泣くの?』
たうとう一つ垂つた涙を見つけて、あなたは咎めるやうに私を御覽になる。
『え、何が悲しい?』
 さう言はれても、私は併し答へるすべを知らないのでした。なぜ出る涙であるか、それがはつきり自分にもわかつてゐたならば、私はもつとどうにかしやうがあらうものを、私はたゞ涙が出る故に悲しく、悲しめば悲しむ程、劬られゝば劬られる程ま
前へ 次へ
全13ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
水野 仙子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング