たそれにあまへて、涙はとめどもなく私の双つの眼を浸すのでした。
九
『僕が病氣をしてるから寂しい?』
あなたはなほもさまざまに[#「さまざまに」は底本では「ざまざまに」]問ひ試みて、私の涙の正體を知らうとなさる。
『きつとさうなんだよ……』
けれども私は默つてかぶりを振る。併しあなたは言ひます。『堪忍しておくれ、そしてもう少し辛抱しておくれ、ね!』
私はたまらなくなつて、やにはにあなたの膝をゆすつてわめきます。
『さうぢやないの! さうぢやないの!』
さうしてひたすらに自分を責め、あなたを劬る心で充ちながら、一層激しくすすり上げるのでした。
かうした場合、私は最も幸福であつたのを今でもはつきり覺えてます。それはある火花の閃のやうに瞬間的なものではあつても、その幸福感は、羅針盤のやうに私の迷ひ易い心の方向を支配するのでした。
けれども、その私達の航路に於て、穩な日和ばかりは決して續きませんでした。ある時は儘ならぬ運命にぢれて些細な事に爭ひ合ひ、あなたはあなた、私は私の絶望や失意を露骨にして、お互の上に辛い課税をかけ合ひました。あなたはたゞ自己の慰められ、劬られるのを欲し、私はひたすらに強く強く自分の愛され、且つ心の滿される事を望みました。さうしてあなたも私も、それを先づ自分のうちに求め搜す事をせずに、ただもう相手の上にのみ、恰も權利の如くにそれを要求したのでした。
この誤は、二人の間の間隙を依然として殘したばかりか、到底それは埋められるものではないやうな、間違つた諦を私の心に植ゑてしまつたのです。
併しこんな事をお讀みになるあなたも息苦しいでせうね、それでもまだ我慢して讀んで下さいますか? 私だつて、いつまでも昔の事を書いてるのは苦しいのですけれど、でもまた一とほり振り返つて見たいやうな氣もするものですから――では、少し疲れたやうですけれど、今日はもう少し書いて置きませう。
私達は一年あまりで茅が崎を引き上げました。まだすつかりとは行かなかつたけれど、いろいろ生活上の都合もあり、またひそかに東京を戀しがつてゐた私の影響、があなたをさう動したのでした。私は何事よりも先づ、友達や知己に逢へるのを喜び期待して東京に歸りました。
Aは早速[#「早速」は底本では「早連」]私達を訪ねて來ました。そして時とすると恐しく考深く陰欝であつたにも拘らず、ある時は熱心に自分の藝術について語り、またある時はその仲間達ののんきな生活の話などをして私達を笑はせました。あなたも今は大分彼と打ち解けて、多少彼をなほ若者扱に見る傾はあつても、あなたの善良さは、知らぬ間に彼に對して十分の信頼を置きかけてゐました。
Aを前に置いて、私の我儘な事や、自己主義的な事やがよく論議されました。時とすると、あなたはほんとに眞面目になつて、私のあなたに對する態度などに就いて、彼に訴へるやうな口吻を洩す事がありました。そんな時には彼はきまつてあなたの肩を持ち、さうして私を貶しめていひます。
『それは確にお光さんがわるいな!』
十
けれども私は知つてゐます、あの人は決して心から私を貶しめてゐるのではないといふ事を。それはあの人が遠慮がなくなつてゐるといふ事だつたのです。ですから、私はいつもそんな時には笑つてゐました。またさうした場合、あなたが惡いとはいはれる事よりは、どれだけ自分がいけない者になつてゐた方が、私には嬉しく氣持のいゝ事だつたか知れないのですから。
Aはあとでよくさう言ひました。
『僕はいつも何かつていふと沼尾君の肩をもつて、お光さんを惡くするやうだが、といつて僕にはそんなにお光さんが惡いとは思へないんだ。たゞどうしてもその場合は沼尾君の方をたてなけりやわるいやうな氣がしてしまふんです。』
さうしてなほ低くつけ加へます。『僕は、たとへ少し位お光さんが惡くても憎めないやうな氣がする!』
女といふ小鳥位愛さるゝ事の好きなものはありません、たとへそれが唯一人の自分の飼主からでなくても。さうしてまた彼女は、自分を愛する愛について甚だ敏感であり、かつ自由であります。
私はAが私を愛してるとまでは思はなかつたけれど、私を好いてる事だけはよく承知してゐました。そしてこの事は、あなたが私を深く愛してゐるとはどうしても思ひ切れなかつたに對し、はつきりと感じられるだけに私に氣持のいゝ事でした。けれども、その事は何も私が自分の心にある制限を加へ、または用心をしなければならぬ程危險な事では決してありませんでした。私は極めて自然に自分の心に從つてあの人に對しました。それはある時は姉の如く、また妹の如く、時には男同志の友達のやうな心であの人を見ました。
けれどもたゞ一つ不思議だつたのは、あなたと共に三人でゐるよりも、Aと私と
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