たゞ二人でゐる時の方が、より心持が自然であり、樂であつた事です。といつて、私達は何も別に人に聞かれては耻かしいやうな話をし交したわけでもなく、
『まあ、羽織の袖口が綻びてるわ、縫つてあげませうね。』などゝ言つて、針箱などを私は持ち出したりするのでした。
『ねえAさん この頃せいちやんはどうして?』
 この質問は大抵一度私の口から出ました。それは、私達が東京を留守にした間に、彼に出來た戀人の名前で、彼がモデル女の中から發見したしほらしい少女だつたのです。私は一度彼の描いた肖像でその少女を見ました。それに依ると、どこか寂しいところはあるけれども、丸ぽちやな顏立の憎氣のない、さうした境遇のまだしみ切らぬある清さを殘してゐるやうな娘でした。
『どうしてつて、やつぱり方々に雇はれてゐますよ、その事を考へると僕は實にたまらない!』
 彼は心が痛むやうに頭を掴み、『僕にはまだあの女を、さうした屈辱の境遇から救ひ出す程の力もないんです。今にとは思つてるんだけれど……一體あいつの母親が惡黨なんだ!』

        十一

『ほんとに、早くどうにかしてあげたいのねえ。』と、私は彼のいら立つて來る神經を抑へるやうに心を遣ひながら、『今度私の家にあそびに連れてらつしやらない[#「らつしやらない」は底本では「らつしやうない」]?』
『ありがたう。この間僕お光さんの話をしてやつたら、大變あなたに逢ひたがつてゐましたよ。』
 それから二人はしばらく彼女の話をするのです。あの人は大層その女を愛してゐるやうでした、そして愛する故の遣瀬なさを、よく私に打ち明けました。私も一所になつてその貧しい少女のために心を勞してました、こんな時に、私は實際あの人の姉さんでもあるやうな氣持になつて、忠告したり、世話を燒いたりするのでした。あの人もまたそれを一向不思議ともせずによく服從してゐました。
 さうかと思ふと、ある時はまた、私がいろんなあなたの話をあの人にするのです。
『私の先生《レエラア》がね……』と、私は始めます。私はあなたをあの人の前にさう呼んでゐたのです、それは私があなたから獨逸語をおそはつてるのから出た言葉で、私は自分で出したこの言葉が非常にすきでした。なぜかといふのに、なかなか覺えないで、あなたから叱られたり、時たまには煽てられたり、ほめられたりして、あなたの前に小さな生徒となつてゐる事が、私にはひどく嬉しかつたからなんでせう。[#「からなんでせう。」は底本では「かなんでせう。ら」]
 その私の先生《レエラア》の話が出る時には、あの人はまた私の同情者となり兄となつて、その觀察點から私に同意を與へてくれました。Aはまた私を通じて間接にあなたを愛し、また信頼の心をも持つてゐました。私はそれによつて慰められ、勵まされ、さうして彼との談笑の中に、何となく心が足りるのを覺えたのでした。
 中でも一番私の心を惹いたのは、あの人の物事に對する燒くやうな追求力で、それは彼の藝術に於て、はたまたその戀愛に於て、常に烈しく燃えてゐるその性情でした。それはあなたの深山の水のやうな靜さに比較する時、私の心にはあまりに強烈に反映しましたけれど、またそこに知らず識らず私を引いて行くあるものが潜んでゐました。殊にあの人が自分の藝術と良心について熱心に語る時、私も共に心を躍し、人世に對する邁進の力に滿ちて己の生活を振り返つて見るのでした。
 けれども、私は決してあなたを忘れてしまつたわけではなかつた。それはいかなる場合にも、あなたの片影をも殘さず私の心から、また肉體から削り取つてしまふ事はできなかつたのですから。しかもさうした精神の緊張の場合に、私は最もまじり氣のない心をもつて、あなたを愛さうとの念に燃えたのでした、さうして一散に私の心はあなたへと走せかへります。
 私は彼より亨けた興奮をそゝいで兩手をあなたの首に捲き、世界中に唯一人の最も親しい者としてあなたを痛感するのを快く味はうのでした。
 かくてあなたと私とAと、この三人の關係は、常に三角形をなして、互に關聯しあひました。

        十二

 しめやかに降る雨も、もういかにも秋のものらしい、まだ早いではないかと心細く呟き眺められるけれど、病後の身にしみる何とないつめたさは、やつぱり默つてそれを是認してしまふ。山の奧には秋も早く來るものと見えます、それでは早く來るものは來よ、私はもう寂しさには慣れてしまつた!
 さて、私は漸くこゝまで、私達の遲々としたあゆみを辿つて來ました。更にもう一言、この現在までの間を補ふならば、私はあなたに相次いで病んだといふことです。
 去年のお正月、歌留多に夜更しをしたせいか風邪を引いて、風邪を引いたと思つて、私は一週間ばかり寢込みました。別にどこといつて痛いところもなかつたけれど、たゞ午後になる
前へ 次へ
全13ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
水野 仙子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング