と三十九度近くの熱が出て、そして頭が痛んだのでした。醫者も風邪だらうと言ひました。けれども殊によつたら、輕いチブスの初期かも知れないから、大事にして經過を見てみようと言ひました。けれども私は一週間經つて起き出してしまひました、熱はすつかり去つたわけではなかつたけれど、ひどい發熱さへなかつたら、氣分には別にかはりがなかつたからでした。
 それから間もなく、Aは毎日汚れたマントを着て、黒いソフトを冠つて私達の家に通つて來るやうになりました。それは、かねがね私の肖像を描きたいといつてゐた事を實現するためで、あなたはまたちようどその時分から、再びある書肆の編輯局に勤めるやうになつたのでした。
 私は相變らず元氣に振舞つてました。けれども、風邪がいつまでも尾をひいてゐるやうな氣持で、午後になると惡寒を覺え、やがては顏をまつ赤にして、頭が痛いと言ひ出すのでした。そして時々突發する抑へ難い咳を洩しました。
 それはある日の午後の事でした。私は例のやうに肘掛椅子に腰を下して、あの人の方へは幾らか體をはすかひにした、いつもの姿勢をとつてゐました。私は窓の障子にうつつてゐる木の枝に、時々小鳥の影がさすのを眺めながら、ふと妙にもの寂しい心になつて、一體その寂しさは何から來るのだらうと頻に考へ耽つてゐました。その中にだんだん足の先がつめたくなつて來て、それがだんだん強く、水でもかけられてるやうな感じになつて來た頃には、ぼうつと眼の下のあたりに熱味がのぼり、外から見たら多分それが櫻色になつてゐるのだらうといふやうな氣がされました。さうして瞬をすると、涙が含み出るほど眼球も熱してゐるのに氣がつくのでした。
 その時私は不意に一つ輕い咳をしました。そしてその僅にゆらめいた姿勢が整へられるか整へられぬ間に、續けざまに二つ三つまた咳き入りました。それで漸くすんだと思ふと、どうしたといふ調子なのでせう、私はたうとう肘掛に半身を崩してしまはなければならぬ程、後から後からと咳き入るのでした。私はあの人の方を見はしなかつたけれど、あの人がはじめは一寸筆をとめ、それからだんだん何かある事に氣がついたやうに立ち上つて、氣遣はしく私を眺めながらそこに立ち盡してゐるのを私は感じました。

        十三

 彼はたうとうパレツトを投げ捨てて私の方へ寄つて來ました。そして私の前に立ち、手は出しかねて、息をつめ、眉根に皺をよせて、ぢつと私が咳き入るのを眺めました。私が漸く落ちついてあの人の顏を見上げた時、あの人もまたぢつと私の眼を見入りました。そして明に何かを言はうとして、思ひ返したやうに口許を動しました。
 けれども、私はあの人のいたむやうな目付のうちに、その意を讀みました。
『あなた、傳染《やら》れたのぢやありませんか?……』
 私はあの人の眼のその懸念に答へて、默つてしづかに笑ひました。
『いゝのよ。』
 恐らく、私の眼はかうその時あの人に答へてゐたでせう。
『今日はもうやめませうね。』
『いゝえ、構はないわ!』
『でも……』
『いゝのよ、もう少しやりませうよ。』
 私は遮るやうに彼をとめて、自分から再びもとの位置に體を置きかへました。私は實はそのまゝしづかにじつとして、彼の眼の質問について、自分でもよく考へて見たかつたのです。
 私達はまたしばらく仕事を續けました。日はもうかげつて、窓に映る木の影もなく、障子の棧の一つ一つに、私は思を手繰つては絡みつけました。
『もし果してさうだとしたら?……』
 けれども、不思議にも私の心はその事によつて少しも惑亂しないやうでした。ほんの一寸の間急速な皷動が心臟を襲うたやうであつたけれど、間もなく再び順調にかへり、やがて不自然な微笑が靜に私の唇にのぼつて來るのでした。
『いゝわ!』と、私はやつぱり自分の心に呟きました。それは決して投げやりな心からではなく、いはゞ子供のやうに簡單に、あなたと同じ状態にこの肉體がなるといふ事が、新奇な思ひがけない事であつたために、却つて嬉しいやうな氣を私に起させたのでした。
 併しAはもはやはじめのやうな忘我の境に自分を置く事ができなかつたと見え、間もなく仕事をよしてしまひました。私はいつものやうに彼が繪具箱を片づける間に紅茶を言ひつけて、それから私達は火鉢を圍みました。
 私は相變らず時々咳をしました。その度に彼は氣づかはしさうに、そして愛情をすらこめて私の顏を凝視するのでした。
『ほんとにお光さん、大事にしなけりやいけないな。』
 あの人は漸くたつた一言さう言ひました。けれども私はその深い意味に氣付かぬふりをして、いつもよりも機嫌よくあの人を送り出しました。
 翌日、私はあなたにも默つて、甞てあなたの通つてゐた呼吸器病專門のS病院へ診察をうけに參りました。そして二時間あまりの後には、右の肺尖加答兒
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