かにあなたの目にその庭の雪を指したことを。さうして私は床の上に起きかへつていひました。
『雪は明方に止みましたの、私がふと眼を覺した時には、もうすつかりしづかになつてゐて、どんなに耳を欹てゝも、天地の物音は何一つとして聞くことが出來ないのですよ。私は考へたの、雪は止んだ、天地は死んだのかしら、それとも眠つてるのか知ら、いやいや死んでもゐない、眠つてもゐない……だけども、こんなに息をつかないでも生きてゐられるかしらつてね。そのうちにまた眠つてしまひ[#「しまひ」は底本では「しひ」]ましたの、そしていつもよりうんと朝寢をしつちまつたのよ。目が覺めたら、あなたが今日おいでになるつていふ手紙が枕許に置いてありましたのよ。私ね、それを手に取りながら、なぜかふつと昨夜……明けがただつたけれど、目を覺した時のことを思ひ出しましたの、そしてお蔦に障子を開けさせましたらね、ほら、こんなに深くまつ白に積つてたんですよ。綺麗でせう、まだだあれも足跡一つ、指の跡一つだつてつけやしないわ、私、今朝ぢいつとこれを眺めてましたらね、なんだかあなたと私との家が、誰にも知られないかくれ家が、この雪の中に、ちようど蜃氣樓のやうになつて見えて來るやうな氣がしてならなかつたのですよ……』
 しかし私は言ひ足りなさを覺えて自分の胸を抑へました。
『ごらんなさい、何のけがれもない純白な世界、それだのにあの空の青いことは!』

        三

 あなたは私の言はうとして言ひ現せない心を汲んで、優しい目で私を御覽になりながら、しづかに私の手をとつて接吻なさいました。
『有り難う!』
 かう仰しやつたあなたの目にも涙がありましたわ。
 その時二三羽の雀が、ちゝちゝと鳴きながら、枝垂櫻の枝の間を飛び歩いて、ほつそりと枝なりにかゝつてゐた雪を、はらはらとこぼしてをりました。それから私は急に氣がゆるんだやうな、がつかりとした氣持になつて、また床の上に倒れたのでした。
 ねえ、覺えてらつしやるでせう、その時の事を。今朝の私の心持も、やつぱりそれと同じやうな心の感激だつたのでせう。
 それからしばらく經つと、私はあなたに手紙を書きたい氣でいつぱいになつて、たゞ一途にその事ばかり考へながら、同じ道を引き返して來ました。そして矢庭に筆を執りました……けれども、こゝまで書いて來た上で、一體私は何をあなたに言ひ送らうとするのかを考へてみなければならぬやうな氣持になつて來ました。私は一まづ筆をおいて、體を横にして、しばらく思に耽らうと思ひます。
(午後三時書き次ぐ)また少し胸が痛む……あの變な、何ともいへぬ不氣味なうづき、けれどもそれに心を假してゐると、また氣が滅入つて仕樣がないから、構はず先を書いて行きませう。病氣よ私はお前に感謝する、なぜならばお前は私の胸に巣をくつて、そのかはりには、脂肪と垢との健康から私の精神を洗つてくれたから。
 早いものですね、私達が結婚してからもう七年になります。その七年の間、ざつといへばあなたも私も大變不幸でした。それは爭と、煩悶と、迷との年月でした。勿論私達は相愛さなかつたわけではないけれど、しかもそのために却へてくるしみを得ました。二人の結合を折々宿命的に考へることがあつても、これが必然の運命と思ひ切れぬところに、すべての錯誤と、焦慮と、苦惱とがありました。それを分類すれば、第一に二人の性格の相違、あなたは澄まうとする、私は泡を立てる。あなたは眠らうとする、私は笑はうとする。あなたが靜寂を欲すれば、私は歌ひ、話し、踊ることを喜ぶ。さうしてお互に己の欲する所に從つて、讓る事をしませんでした。殊にそれは我儘な私の場合に於てさうでした。
『なんて我儘な女だらう!』
『えゝ、私は我儘よ。』
 それがいけないのですかと言はぬばかりに、私はあなたの情なささうな顏を意地惡く見つめる。
『またヒステリーがはじまつたね。』と、仰しやれば、
『えゝ、私はヒステリーよ。』と、すまし込んで、しかも寧ろ得意さうな顏付をする。
 あなたは默つてしまふ。
 かういふ調子は不斷の有樣でした、しかも私はそれで幸福でしたらうか、いゝえ、決して! さういふ時、私はあなたがいつも諦めたやうな顏をなさるのが殊に大きらひでした。そして默つて机に向つて、こつこつと例の飜譯ものにかゝつてしまふあなたの後姿を、どんなにうらめしく憎らしく眺めやつたことでしたらう。

        四

 一口にいへば、あなたは熱のない人でした。いつも同じやうにたひらかであるかはり、感情が堰かれて迸るといふやうな事もあまりなく、靜に默つて、いつまででも同じ所に坐つてゐられるやうな人でした。私ははじめ、あなたつて人は決して汗をかゝない人のやうに思つてゐました。どんな眞夏でも、あなたの落ち着いた顏を見てゐると、どうしたつてそ
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