十八

 さあ、今は漸くをはりに近づきました、だけどもう日記はやめませう、たゞどうかもうしばらく私に語らせて下さい。
 一ヶ月あまりの入院中、三回程の窄胸術《プンクチオン》をやつたために、私の呼吸は大分樂になりました。あなたは毎夜訪ねて下さる、そのために私は夜になるのがすきでした。夕方から夜にかけて、私はそれをどんなに待つたでせう。それが私の一日のむすびでした、そして十時を期して歸つて行くあなたを見送つてから、やがて電燈を消して貰ひ、闇の中にもほの白く見える寢床の中に、私は靜に眠らうとするのでした。あなたの見えないうちは、私は夜になつても夜になつたやうな氣がせず、また一日が濟まないやうな氣がするのでした。それだのに、私はどうしたといふ慾張だつたのでせう、あなたの外に、私はもう一日々心ひそかに待つたものがあつたのでした、それはAが再び昔の如く私の前に現れる事をでした。けれども彼は遂に來ませんでした。
 私は間もなく、私のすきだつた東京を見捨てゝ田舍に去りました。あなたは何事も知らずにその通知を彼にお書きになりました。
 この旅立は、恐らくは私と彼との永久の別離であらうと私はひそかに思ひました。
『さらば私の夫よ、友よ、あなたがたはほんとにいゝ人達です、どうか私を間に挾む事なく、直接にあなたがたの手を取り合つて下さい、あなたがたの友情を私によつて躓かされることなく、お互に援け合ひ、仲よくしあつて下さい、もしもそれがつひに叶はぬものであるとも、せめては私のゐない間だけでも!』
 これが私のその時の心の願でした。
 そして、それから私達は一體どうなつたか?
 療養のために歸つた田舍で、私は一しきり却つてだんだん惡くなつて行きました。そしてその年の初秋から翌年の花の頃まで、雪深い田舍の病院に埋れて暮さなければなりませんでした。
 それらの日の寂しく靜な記臆は、まだ新しく私のおもひに浮んでゐます。……かくてさうした日のある一日、彼は突然不意にその姿を私の前に現しました。私は再び彼を見ました。そしてそれを信じた時に、私は穩なよろこびと、自分がそれほど重態であつたかといふしづかなうなづきとを得たのでした。その前後全く東京を離れて私に附き添つてゐたあなたも、彼のこの遙々な訪問をひどく喜んで下さいました。私はあなたがひそかに彼を呼んだ事を悟り、涙ぐましい氣持になつて、枕許に並ん
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