心配らしく言葉の調子をかへた。私は實際いつもの時刻が來たのと、その胸を波だたせたのとによつて、兩手で熱い頬を押へながら床の中に喘いだ。
 彼は私の顏の上にその手を置いた。私はそれをはづす事ができなかつた[#「できなかつた」は底本では「きでなかつた」]。
「あゝ隨分熱くなつてゐる、冷してあげようか?」
 私は默つてかぶりを振つた。そのまゝしばらく沈默が續いた。私は目を閉ぢてゐながら、かれがぢつと腕組をして私を見つめてゐるのを知つた。
「あゝ神樣! もう澤山です、どうかこれより以上の何事もなくすみますやうに!」
 けれども突然彼の手が私の手の上に重ねられた。そしてその手にだんだん力が込められて行つた。私はすくめられたやうになりながら、内心に烈しく神を呼び續けた。
「光ちやん! 堪忍してね! 堪忍して……」
 ……彼はくるりと私に脊を向けて兩手でその顏を蔽うた。……』
『三月五日。今、自分の周圍に見出すものは、白いベツドと、白い掛蒲團と白い看護服と――すべてが白い。夫に伴はれてこの病院に入つたのはたしかあの翌日だつたけれど、それから大分月日が經つたやうな經たないやうな氣がしてゐる。すべての生活が違つた。私は何だかたゞ白いものに包まれてゐる。看護婦にものを言つたり、檢温したり、藥を飮んだり、とどこほりなくやつてはゐるけれど、何だかそれは別な自分のやうな氣がする。何だか一寸忘れものをしたやうな氣持で、始終何か考へよう考へようとしてゐる。殊によつたら自分は死ぬのぢやないかしらなどと時々思ふ――それにつけても、彼はもう來ないかも知れぬ、このまゝ、私が痩せ細つて死ぬ時でも、または再び恢復して小鳥のやうに囀る事を欲する時にも……それではもう吾々の別離は來たのであらうか? こんなに早く、あつけなく、そしてそれを私達が欲しないのに!
 けれども、私の心はやつぱり彼を待つてゐる。自分達の別離であり、それ故に今は別れなければならぬのをよく知りながら、彼を失ふことは私に寂しく味氣ない。私はその唇がこの額に觸れぬ前にそれを拭うた、さうしてそれは、私が私の夫と、彼の少女とに對して僅にのこした白き道であると思つた。けれども、私は彼の心をあまりに邪推したのではなかつたらうか? 自分の危い心をもつて彼の心をも危んだのではなかつたらうか? 彼はたゞ他意なく私にしたしんだゞけであつたのに……?』

    
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