脱殼
水野仙子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)移つて行《ゆ》く。

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)暫くの間|雑念《ぞうねん》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)掻き※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]る。

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)パラ/\
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[#ここから2字下げ]
時は移つて行《ゆ》く。今日の私はもう昨日の私ではない。脱殻《ぬけがら》をとゞめることは成長の喜びである。
その脱殻の一つを、今私はその頃の私に捧げようと思ふ。
[#ここで字下げ終わり]

 いつの頃からともなしに私はさうなつて来た。どうした訳でなのかもわからない。寧《むし》ろわかることを避けて居る。面倒くさがつて居る。私はたゞ、此頃私はかうなんだと思つてみて居る。
「なんて腐つたやうな生活なんだ!」
 かう言つてあの人は憤《おこ》る。すると私もさう思ふ。
「まるで腐つてるんだ。蛆《うじ》が湧くぜ今に!」
 唾でも吐きかけたいやうな顔つきをして、あの人は私を見下して起つて行く。全くそれに違いない。適切な言葉だと思ふ。だけど、たゞさう思ふだけで、一向痛切にそれが響かない。私の腐つた心には、もう薬もなんの利き目がないのかも知れないなどゝ思ふ。
 パラ/\と自棄《やけ》に頁を繰《く》る音がする。と、やつぱり相手を求める私の力でないやうな力に操《あやつ》られて、私はつと後を追つて行く。
「ね!」とぺたり坐つて、あの人の膝にしなだれかゝる。あの人は黙つて居る。
「ねつたら!」
「おい!」
 いつもの慍《おこ》つてる時に出る声の返辞。すると私は、無上に気に入らなくなつて、何がなんでもそれをどうかしなければならなくなる。
「いやあよ!」と鼻声になつて、膝の上にのしかゝつて、猫が自分の寝どこを工合《ぐあい》よく作る時のやうに、ぐん/\と体の半分を机とあの人の体との間に割り入れてしまふ。
「よ! 厭だつてば、そんなに慍つたやうな顔をしてちやあ。」と仰向けになつて見上げながら、首に手をかけてぐい/\と搖らせる。その時に一寸《ちょっと》、少し大き過ぎると思ひ/\したこの人の鼻が、此頃は一向気にならなくなつたことなどを思つたりする。
「ねえ! よう!」
 それでも猶あの人の頬は引締つて、丁度内側から吸ひふくべでもかけたやうに、肉がこけて見える。そんな時には、頬骨がいやに高く目に立つて、角度の多い顔になる。そのいつまでもほぐれない顔色を見て居るうちに、それが女の資格を失ふことでゝもあるかのやうに、私の心は焦慮《じ》れて口惜しがつて来る。そして意地になつて男の心を随はせようとかゝる。
「ようつたらよう!」
「煩い!」
 と、私の心は足場を失つてほろりとあの人から離れる。細胞といふ細胞に一ぱい含んで居たやうな体の味――さういつたやうなものをあの人に甘へてる時にいつも味はふ――が、汁を吸ひ取つた梨の滓のやうにぽろ/\したものになつてしまふ。私は恐い顔をして凝乎《じっ》とあの人を見つめる。すると、自分で出した声の突拍子だつたのに少し慌て気味のあの人の顔に、それこそほんのすこうし和いだ影を見て取ると、私は如何にも萎らしく消気たやうに悲しさうな顔をして、黙つて凝乎と遠く障子の桟などを見つめて居る。
「何だい? ん?」
 今度は私が黙つて居る。暫くしてそつと偸《ぬす》み見をすると、あの人は如何にもものを内に向いて考へるやうな眼付をして、ぢいつと一つところを見つめて居る。私はひとりで芝居をしてたやうな、間の抜けた感じを味はひながら、急にあの人に投げて居る体の遣り場に困つてしまふ。こんな時位、二人の間に粘り気を失ふことはないと思ふ。かうした時間の連続は、二人をして未練なく離れしめ得るであらうと思はれるほど、私の心も、私の体も、ひたとあの人に向つての流動を止めてしまふ。私はぷいと起つて行く。

 暴風雨《あらし》が私の体中を荒れ狂ふ。雷雲《かみなりぐも》のやうに険悪に濁つた血が、迸《ほとばし》り出る出口を探し求めてるやうに、脈管を走り廻つている。一寸した指の弾き方にも、歩き方にも、数の少くなる口の利きぶりにも、一つとしてその濁つた血の支配を受けないものはなくなる。手を一つ動かすと、それが返り戸をするほど力委せに戸を閉めてる。足を動かせば、それがまるで地踏鞴《じだんだ》を踏むやうにしてゐる。あらゆるものを取つて投げ、壁を破り、家を壊したら、少しは慰むだらうと思はれるやうな慾望が、むら/\と肉を盛りあげるやうに私の体の中から湧いて来る。と、あゝ父の血だ! とちらり閃く考へが、何処《いずく》とも
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